19
お父さんそのお姉さんだぁれ――ねえねえお母さんお父さんが――あんたが言わなければこのままで――もうみんな出て行ってお金なら――
「――ぁ」
「おはよう」
「入江ー、聞こえてるかー。お前、教室でゲロって、倒れてなー、」
田口と、保健室の先生、それぞれ名前が分からない。交流事をまともにしないからだ。
「あなた遅くまでバイトしてる?」
「はい」
「過労でしょうから、しばらく休んでね」
「大丈夫です、もう、休むことになってるんで」
「そう。よかった……他に何か話したいことはない?」
「俺らも、なんかあったら聞くし」
いまさら学校でまともな口をきくなんてことが出来るかと、誰に言うべきでもないことを思った。縁の無いやつにこそものは言いやすいとか言うが、だとしたってもう無茶だろうと、多分このあたりで例のプレゼントを諦めた。
「何あったん?」
なるほど、この程度の距離でいれば、秘密なんていくらでも保てたわけだ。
「別になんもないです」
「……そっか」
「また話したくなったら言ってね」
器用だなあ。
普通の人はそこらのバランスを、特段考えるでもなく、感覚知でうまいことやっていくんだろうな、普通はそういう回路が組み込まれているものなんだろう。
例えば俺は、クラスゲロとかいう厄介げなこの事件で、もしかするとごたごた言われるのではないかと少しでも思ったのだ。言うか一七にもなって。よっぽどじゃなきゃいない。気まずさを和らげようとか、そういうやつくらいだろう。そう、わかっていて、俺は、ほんのすこしでも、恐れるんだからそういうことだろう。
長い。うざい。湿っぽい。みみっちい。他人の苦労を小さく見るな。
「早退する? スマホ、使っていいから、親御さんに」
「大丈夫です。自分で帰ります」
「そう? お大事に」
「お大事にー」
これから俺の衝動のありようは、どうせよいようにならないとわかっていながら、善意を働かせる。それをあくまで「独り善がりだから、悪いようになったって、もとからどうでもいい話だ」とこじつけて動き出す。いつぞやと同じく。
「……っし」
キャリーバッグは無理矢理閉じた。
頭は厭わしく、胸は濁っていて、やることなすこと全部やけで、万人そんなもんだと思うことにして恐らくそんなものではない。
「修学旅行かって……」
何かしら決然として、すっきりと出発したかったが、ただ惰性とそうせねばならない衝動感のみで行く。
桃太郎か、浦島太郎か。
決意のかわりにつまらないことを考えていた。鬼の住むところへ取り戻しに行くから桃太郎、しかし鶴と雪女ときて、それらの結末を鑑みると、同じ旅でも浦島太郎。姫と鬼と両方待っているから、そこでどちらとは言えない。虐げられた誰かに連れて行かれるのだから、そこら、桃太郎よりは浦島太郎。
どちらかといえば浦島太郎じみていると、連れていくことはかないませんと、なんなら玉手箱を開けるような馬鹿をやらかしてひどい目食いますと、無用な凶兆を自ら増やした。
靴を履き、ノブを回し、蝶番の軋みで風を切り、夕の冷気に滑り込むだけ。
いつか「やべ、わくわくする」などといって駆け下りたぼろ階段を重く下る。
「純」
純。
久しぶりに名前を呼ばれた。
階段の裏側に目を落とす。
「……母さん」
「またそういうことするの」
「久しぶり。……一二年?」
「ねぇ、あんた、私がいまどこで働いてるか知らないの?」
「……父さんからは何も聞いてない」
「澄川電気。澄川電気よ。
昨日、私もう……死ぬ思いしたんだから!! あんたのせいで!!」
なるほど。
こういうやつがいるから――
「俺は何も悪いことしてない」
「あんたのせいでああなったの」
「親父のせいだろ」
「それをあんたが言わなきゃよかったって何度言ったらわかるの」
「親父が好きだから、そうやってごちゃごちゃ……」
「当たり前よ。考え方っていうのはね、自分のためにあるの」
そりゃそうだ。
だから父さんを憎む理屈はいらない。
かわりに俺を憎む理屈でいい。
どっちが正しいなんて決まりはどこにもない。
個人の自由。
考え方は自由。
「くそだよ」
「は」
なるほど。
こういうやつがいるから、澄川さんも、俺も、こうなのか。
「母さんはくそだよ」
「くそはあんたよ私にとっちゃ」
「……」
――やめろ。
それは、甘ったれた考えだ。
思考決断の自由がある、それがこの世に珍しい真実だ、対して、万人が幸福になる世の中の保証はどこにもない、だから誰かに否応なしに考えを曲げられようが、それを背負う当人がそのすべての責任を負うのだ。本質が自由ゆえのことだ。
だからこの人を殴るなら、羅生門、下人、『では、
……襟首を掴んでいた。
「母さんはくそだ。俺にとっては」
「京都には行かせないから」
「あんたもう俺の親じゃないだろ。何の権利があるんだよ」
「親とかもう関係ないでしょ」
「じゃ、もうただの個人対個人ですね」
「ずっとそうでしょ」
もういいかな。
「――は」
「殺すぞ」
そこらのコンクリート片を掲げた。
「あんとき俺に石投げたのあんただろ」
「『またか』って思ったのよ」
「じゃあ投げられる覚悟はしてるよな」
「なんであんたがあのお嬢様と一緒に居るの」
「歯ぁ食いしばれ」
俺も会話してやらなかった。
「私があの件でどれだけ責められたと思ってるの!! 澄川のお嬢様を危険にさらしたって、ほんとに、ほんとに!!
何で投げたかわかるでしょう、あんたが居て恨めしかったから投げたの!! だからあんたのせい!! わかる!?」
結局投げなかった。投げる気すらなくなった。
馬鹿な亀を虐めるワンシーンが挿入されたから、やはり俺の行く道は浦島太郎だ。
さぁ、京都へ行こう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます