18
ただ数えていた。都合四五度、俺は急所を殴り蹴られ、愛しの旦那様が帰ってきた一八時、猿女は元気よく「あとは適当に」と俺と彼女とを放置した。
「……ごめんなさい」
「お嬢」
「ごめんなさい」
もとが白いから彼女の腕は、赤くなったのがよく目だち、しかし涙の筋などもはや生じていないから俺は、地獄のど真ん中にいる気分になった。あの猿女、自分で殴れよ、どうせ殴ると手が痛いから、とか、そんな理由で。
「……ッは」
畳に血反吐をこぼすと歯肉つきの歯がつぁらつぁら、無音の真ん中に音を立てて転がった。
以降、嗚咽も何もなかった。
「はー……」
「正和さん、ありがとうございます」
「というと?」
「入江さんのこと、話さないで下さって、ありがとうございます」
「言ったら殺されてましたよ。あなたに……」
「もう人は殺しません」
「澄川蓮子が直接『殺せ』と言ってもですか」
「……」
「俺が身内を売るやつかどうか試されたんですよ。もう騙しちゃいますけど……」
無理くり肘を張って立ち上がり。この人はほんとうに小さい。
「恐らくあの猿女はもう全部分かってます」
「猿女?」
先日金融のお偉方が屋敷に出入りしていました、多分口止め金を振り込むために入江の口座を割ったんでしょう、その時点で入江のことは知られています、しかしそんなことのためにあんな数の人間を動かすとは、云々。
「お嬢は入江がこれから無事だと思いますか」
「いえ。お姉様は、口止め金なんかで安心なさらないと思います」
いえ。
この人の否定を初めて聞いたかも知れない。
「なら俺の策に乗って下さい」
「……」
「このままだと最悪、入江が死にます。しかし俺の策に乗れば、入江は助かって、そのうえあの猿女から解放されます……澄川を倒しませんか」
「……少し時間を下さい」
また、「はい」と言ってくれない。
――私は要るのでしょうか。
たくさん人を殺しました。私一人がお姉様に殺されないために、たくさん、両手で足りないくらい、人を殺しました。
いまさらの罪悪感に……家に酷い迷惑をかける勝手な罪悪感に駆られて、逃げて、逃げて、逃げて、何もかも尽きてしまって、
『お姉さん』
『聞こえますか』
『蒸せないで下さいね』
こういうことをしてもらうほど要る人間ですか私は。
『お帰りなさい良子。大丈夫だった?』
『お礼ねぇ』
『二人連れて行きなさい』
行き先は嘘をついて、下ろしてもらったところで逃げました。
GPSのついていそうなものはすべて捨てました。
復路分のお金と、教えてもらった連絡先で――
『うちに来て下さい』
『助けさしてもらっていいですか』
『将棋でもしませんか』
『高校に好きな女子がいまして』
『助けて下さい』
『俺これいいと思うんですけど』
私が生まれてきたことで、どれだけの人に迷惑をかけたかわかりません。私が生まれなかったら、別の誰かがお姉様の人形だったかもしれません、けれどもしもを考えても、あの人たちを殺したのは私です。
きっと一生で一番幸せでしたから、もう関わらないで下さいね。
「……乗ってくれますか」
「はい」
はい。
この人の肯定を初めて聞いたかもしれない。
「大丈夫ですか。割合、人生が変わりそうな決断をしてること忘れてませんか」
「大丈夫です」
この人は入江と違って、俺と違って、おおっぴらに誰かのためを思うだけの勇気を持っているのだと、こみあげる血反吐とともに、鈍い低音のような感情が盛り上がって、思考回路が薄暗く光を失して。
危うく判断を誤るところだった。
「これっきりで死ぬつもりでしょう」
「はい」
判断を誤った?
「作戦後はもう姉も澄川もありませんが……贖罪のためというんなら、ムショにでも入るべきでしょう。澄川がなくなれば自首も出来ますよ」
「もういやなんです」
「ならお好きに」
それだけの話だ。
入江みたいに、独り善がりのラップで包んだ善意を差し出すこともない。
「つっても、作戦の確度は9割9分です」
「そうなんですか」
「ええ。入江の馬鹿が妙な発奮を起こして、わざわざこっちに来たりしなければ……あとは何に気遣うでもなく、どうとでもなります」
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