17
枯山水のそこら中、紫の蓮の浮く器を散りばめ、無限の生のごとく毒々しいこの庭は、俺がやっつの時と少しも変わっていない。
澄川邸、もう来たくはなかった。
「落伍者の貴橋にしてはよくやる」
「報奨を期待せよ」
「恐悦至極に存じます」
こんな家がまだこの国にはある。
だが、この爺婆はまだいい。
小上がりに座する御簾ごしの女。
「良子。こちらに来なさい」
「はい、お姉様」
「大丈夫。心配は要りません。あんな些末事どうとでもなります」
あんな血みどろを些末と言えるこの、澄川蓮子という女は、もはや人間から外れている。いや、人間ではあろうけれど、ただホモ・サピエンスであって、人道から外れている。
だから俺はこいつを猿女と呼ぶ。こいつは、人が社会性であるために積んできた道徳の研鑽など知ったことでない猿だ。
いや、きちんと人間から、動物から外れているかもしれない。澄川蓮子は老いを知らない。
「そこの、貴橋のもの」
「はい」
「名前は」
「正和でございます」
「あぁ正和。大きくなりましたね。あなたの聡明さはよく聞き及んでいます」
「過分に預かり光え」
「また。あなた私のこと嫌いでしょう」
返しに言い淀んだ。
純粋悪程度のものより余程黒い、人間の欲望として解釈できるが理解納得は出来ないタイプの、所謂人間悪。理解できるおぞましさ。
さてどうするか、嘘ごときは見抜かれる。
「いえ。卓越した野心に加え、弱輩には量りがたい才気を携う女傑、我ら貴橋の主たるあなたをまさか、畏れ敬えど嫌悪することなど……有り得ません」
「賢く鋭敏な子ですね。もう忘れません」
これでもう、あまりいい死に方は出来なかろうと思った。
楯突けど、従えど。
「あなたたち」
鶴の一声なんて言葉があるが、あんな、神秘に惹かれるような体感ではない。氷結だ、心臓が冷え、諦める、雪女の体感だ。
しかし、鶴、雪女。なんとも近頃の出来事によくそぐう。
「わたしの可愛い良子が、まさか、人殺しなんてするわけない……でしょう?」
ぐるり座するひとりずつに視線を送る。
みな視線が来るときに「はい」と、職責か何かのごとく返事をした。むろん俺も。
「よろしい。みな、今日はここまでにしましょう。
……良子、正和さん、あなたたちは残りなさい」
「良子。あなたの何がいけなかったと思いますか」
「……」
「黙って、我慢して、嵐の過ぎるのを待つような顔はやめなさい」
「ごめんなさい」
「酷い悪癖です。もう二十歳でしょうに。
だいたい被害者の顔をしないでちょうだい。嵐はあなた。あなたが害したのですよ」
「はい、ごめんなさい」
「そう。ごめんなさいはそう使うものです。……何がいけなかったかわかりますか」
「……私が、私の償いのため、家ごと危うくしようとしたからです」
「償い? あれは悪行であったと?」
「私が、私の勝手な罪悪感のため、家ごと危うくしようとしたからです」
「その通り。メディアにでも知れれば、さしもの私にも手間です」
「ごめんなさい」
「逃げようなどと思わないことですね。もう手を回してあります。法が万人を平等に裁いてくれるなんて、子供の思い込みはやめなさい」
「はい」
「これからは、わきまえなさい」
「はい」
なるほど制圧完了か。
この野生動物相手に目を合わせてはいけない。猿山の猿と目を合わせれば争いになる。例えば、「良子。正和さんを殺しなさい」「はい」。
やはり純粋悪なのかもしれない。行動原理たる欲求はわかる、わかるが、この人はそれを悪と思わない。悪というのが悪を悪と思わないことを真髄とするなら、純粋悪はこの人に相応しい。
「正和さん」
「はい」
猿女、澄川蓮子は、荒原の獣がそうするのとまったく同じように睨んでくる。御簾ごしであれど眼光を錯覚させる。
「あなたは良子と違って賢い子です。きちんと大人らしく答えなさい」
「はい」
「あなたの何がいけなかったと思いますか」
賢い子。
ああ、なるほど、嘘をつくのは賢くない。
「逆賊たる我ら貴橋に、寛大なるお心から贖罪の機会をいただいておきながら」
「二十日も待たせたことはよろしい。あなたたち貴橋は約束通り、これからまた、澄川のもとに膝をつきなさい」
「恐悦至極に存じます」
あの愚かな父は喜ぶことだろう。
「あなたの何がいけなかったと思いますか」
「……」
「良子。正和さんを殴りなさい」
「はい」
細腕が鳩尾を突き上げた。
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