15
澄川のお嬢と先生はそう言った。
「何も気付いてなかったのか」
沈黙をまとう足の踏む音がそれでいて、低いドラムの音のようなほど重く響いて聞こえた。
「何も気付いてなかったわけじゃないだろ」
京都。因縁。達筆。品性。ひよわ。世間知らず。生活下手。薄味好み。
まだ、まだいくらでも、言い連ねればどれだけでもある。
秘密は秘密のままでなんて無茶だった。
当たり前だ、人は人、己は己、きっぱりと分けられたならよいけれど、籠もれば淀み、籠もらねば外に馴染んでいくのが空気というもので、だから、今を今のまま、分けられたものを分けられたままにしておくなんて、恐らくは――
「もうもたねーよ。お前とお嬢」
「先生」
「もうこっちの世界に関わるな。やめとけ。……今日見つかってよかった」
「澄川さん」
「……」
「だからやめとけよ。……耳貸せ」
ヤニ臭い口が耳元に「す」と寄って、俺はしかし立ち尽した姿勢をそのままに、注がれる音をただ注がれることになる。
「殺人も関わってる。マジでやめとけ」
俺はそのことに何一つ驚いていなくて、いや、もうすでに最大限唖然としていたからこれ以上どうしようもなくて、引いていく先生の顔に焦点が合わず、澄川さんがチラリこちらに目を向けるのがあんまりにいまさらだった。
「大変お世話になりました。なのにこんなお別れになってすみません。……でも、これ以上、澄川に関わるのは危ういと思います」
「知りません。俺の勝手でやったんです。俺の」
「そもそもお断りすればよかったのに……私が、熱さで死ぬことも、寒さで死ぬことも我慢しなかったから」
「だから全部俺が無理矢理やったんです」
「でも入江さんは私のためになさいましたよね」
「全っ然違います。全部、俺の独り善がりで、あなたの事情なんて知ったことじゃなかったんですよ」
「でも入江さん、そうやって、なんとか優しくなろうとしてらっしゃいますよね」
だから、と。
「だからお名前がよく合っていると思います」
「名前?」
「きれいなものになろうとしているから、純なんだなって、思います」
あえてあえて遮るために、先生は俺と彼女の間に立ち塞がって、まるで恨まれたいみたいな嫌な疲れた大人の顔で、うなじを掻いてから首を鳴らした。何を言う気か知らないけれど、俺の頭の中まるごとは今、これ以上を飲み込めるかわからない。
「お前のためを思ってのことだ」
――けれど。
その言葉が一番嫌いだから自動的だった。
「……それが一番嫌いなんですよ」
「お前もそれをやった」
「俺は違います」
「違わない。お前は善意を配る言い訳にヒロイズムだのなんだの言うだけだ。お前はいつでもその善意を善意だと思ってる。だがそれを勘違いと誹られないために、もとよりお前のためなんかじゃないと、逃げ口を用意してるだけの……よく居るやつだ。
セルフで貶めて、セルフで傷つけて、それでもうこれ以上自分は傷つきませんって、馬鹿らしい。どこまで行っても無理だよ傷つかないのは。そういう風に生まれた自分を諦めろ」
横目に、澄川さんがいつもよりずっと白く見えた。
「入江さん」
「はい」
はい、と澄川さんみたいに返事して。
この隔絶感と疎外感こそ、澄川さんの静けさだったのだと、いまさら気付く。
「本当に、お世話になりました。必ず相応のお礼をします」
「行きましょう」
「はい。待っていただいてありがとうございました」
「いーえ……入江。今度から人付き合いに秘密は止めとけ。お前はそんな器用じゃねーんだから、言うべきことは言ってわかりあえ。波田もそういう感じのやつだよ」
最後の教え。全否定。
背中はいつも嗤うように遠ざかる。
翌日、明かしてもいない俺の口座に、三度人生を送ってもまだ何でも出来そうな大金が振り込まれていた。謝礼金、それと口止め。
御伽噺、報恩譚が終わったのだと、それでいて俺の無様に相応しい終わり方をしたのだと、まるで自分の人生をドラマとでも思い込んだ馬鹿の発想がよぎった。
畳を殴る。
……ところで、先生が間諜役か何か、澄川さんを探す役割の何かだったとすれば、ああなるほど、だから澄川さんは外出をしなかったのか。
それでも今日外出したのは、多分俺のためで、「見つかるリスクはあるけど入江さんに救っていただいた命だから入江さんのために損をすることくらい許容しよう。もとよりここに隠していただいていることがご迷惑だ」なんて考えをなさったんだろうな、まったく、澄川さんは澄川さんらしい。
つまり俺の善意はそのまま暴力だったわけだ。
『きれいなものになろうとしているから、純なんだなって、思います』
そうですね。俺、きれいじゃないので。
はい分かってますよ、心の綺麗に限りはなくて、磨き続けるもので、要するに「今もきれいですけどさらにきれいになろうとしているあなたは素敵です」と、はい。澄川さんらしいですね。
『どこまで行っても無理だよ傷つかないのは。そういう風に生まれた自分を諦めろ』
――どう足掻いたって何か分かっていない、不注意で軽率な、「何も知らないやつが知った口をたたくな」と憤慨される人間の枠から逃れられない。
悪人なんてのはなりたくてなるものでも、辛抱たまらずなるものでもなく、他に道がなくて勝手になっているものだ。
うまれつき善性のやつうまれつき悪性のやつがいて、善性が悪性になることはあっても、悪性が善性になることは絶対にない。どうしようもないやつはどうしようもないとどこかに決まりが書いてある。
「……くっそ……」
という、どうしようもない、長いだけの文句。
誰か俺を優しくしてくれ。
「……」
俺はダイヤルを回した。
バイト全部やめようと思った。
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