10
「……では、食べ物のことから、いいでしょうか」
カテゴリ分けする程度には何事か言いたかったんだなと、聞えないよう唾を呑んでから。
「お味噌汁のお味噌が濃いので、減らしていただけるとありがたいです」
力の抜けるような、まったく妥当なような心地に陥った。
こういうことを聞くために聞いた、けれど、重大事が襲ってくる身構えでいたのはなぜだ。なぜだと言ってわかるでもないけれど。
というこの思案はきっと顔に出ていて、しかも返事をしないから、澄川さんの続く言葉を詰まらせている。俺は無用に気を急かした。こういうときは、おおかた、場のどもりがどうしようもなくなるとわかっていて、それでも急いてしまうのはなぜだ。わかるでもない。
「はい、それで、他に」
「はい」
澄川さんのきれいな正座がすこし、小さくなる。
俺の無作法な正座は、足指の組み替えが露骨だ。
向き合ったまま、笑って誤魔化すでもなく沈黙で、お互いいくつだろうと思ってから。
「出来ればお肉と油も、減らしていただければ……」
「わかりました」
少し落ち着いて。
「それと、ピーナッツは……アレルギーが」
「は」
馬鹿じゃないかと、喉が詰まった。
「……いままでどうしてたんですか」
「食べるとき、重ねたティッシュに落として……勿体ないんですけど、お手洗いで流していました」
「何で」
「お世話になっていますから」
――こんな調子で出るわ出るわ、致命的な言々の数々。
照明の暑さで少し頭がふらふらするだとか、トイレットペーパーの紙質が悪くてひりひりするとか、このくらいはまだやさしい方で、実はこれまで一度も外出していないそうだ。
だから、一応勝手になるお金をお渡ししてあるけれど、一銭も使っていらっしゃらない。むろん、月のもの用のアレソレがない。衣服もろもろ、最初に買ったものしかないから、最近寒いとか。
「そんな薄いですかね、それ」
「冷え性なんです」
「あー……女の人……多いですよね……いや冷暖房は」
「使っては悪いかなと」
「……また体壊しますよ」
やけに電気代が変わらないと思った。
まだ、いくらでも、致命的なのが零れ出た。
「先生、やばいっす」
「例の彼女?」
「彼女じゃないです」
「で何がヤバい」
「遠慮がヤバいです」
「そういうもんだろ」
その常軌の逸し様を知らないから言う。
「いやあの人は異常ですよ~とか思ってんだろ」
「思ってますよ」
「若い」
貴橋先生は「っとぅー」と鳴らしながら煙草を吹き上げ、後に倒れ込み右腕を支えにつくのでよくよく大人ぶっている。余韻を、起こす。
不快でない沈黙を種々にまとうのが大人だと、いつか、誰かに聞いた。思い出した、この人が言ったのだ。
「……若いってなんですか」
「視野狭窄、視点が少ないと、そう言ってるんだよ」
「……」
「それで嫌な顔する場合は『ガキ』という」
これを、俺の方など一度も見ずに言う。
「聞くまで言ってくれないんですよ」
「聞いて言ってくれるだけいいな」
「アレルギー言ってくれないとかあります?」
「悪かった。そら頭おかしいわ」
吸い殻の潰れる細粒音。
「どういう付き合いしてんだよ」
「どういうってなんです」
「どんな話するんだ」
「……してないです」
「ばっかでー……」
追って、側頭を掻きまわす音。
「確認」
「はい」
「それはあくまで、お前がやりにくいからどうにかしたいんだな」
「はい」
「じゃ、恩返しさせてやれ」
「恩とかないっすよ」
「相手がそう思ってんだろうが。だから遠慮する。
そこをあくまで、お前がやりやすくするために、お前の都合で、返すようなことさせてやるんだよ」
俺の中で妙ちきなパラダイムシフトが起こった。それと、頭の幼いところがこのことをやけに革命的に感じて、嗚呼この世の自分都合は突き詰めると人の為になるのだなと、世の中には救いがあるように考え出した。
多分、後々になるとそこに注がれる熱意はなくなって、まっさらな虚無がこの理論を馬鹿にする。
……でも。
「勉強教えてもらってますけど」
「成績は」
「……」
「そりゃあ返した気にならん」
「いただきます」
「いただきます」
と、いつもの言に加えて。
「澄川さん、お願いがあります」
「はい、私に出来ることであれば」
このようなことを気軽に言うからこの人は、怖い。何が起こるかわからない。
「食べながら聞いて下さい」
「はい」
だからこんなことを言ってしまっては、もしかすると、食べずに聞くことが出来なくなるのでは。そんなロボット相手みたいな馬鹿を考えたが、無事だった。
さて。
「高校に好きな女子がいまして」
「はい」
「今度その子、誕生日なんで」
「はい」
「……なんか渡せないかなって思うんですよ。アドバイスもらえませんかね」
すべて本当だ。波田凜香。そして予告しておくけれど、この先彼女とのことについて長々語ったりしないし、この計画は失敗する。
なんということはない、ただ、勇気がなくて渡せなかった。渡しでもして、「あ、うん、ありがとう」、その裏に「プレゼントされるような関係だっけ。こわ」と本音が潜むことを恐れた。そういう始まり方をしてもよかったのかもしれないけれど。
しかしとにかくも渡さなかった。だから今から始めることは、失敗することだ。
「はい。考えてみます。他に何かあったら言って下さいね」
「はい、是非、お願いします」
形を見つけた気がした。何か、誰もが欲しがってやまない心のことの何か、形と呼ぶべき何かだと思われる。
「じゃ、そんな感じで……」
「あ」
「どしたんです?」
「お味噌汁……」
「あぁ」
「おいしいです。とっても」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます