06
結論から言うと、澄川さんは逃げた。答えに窮してすごい俊足で逃げてゆかれた。
俺はといえば、明日のために大急ぎで寝て、朝うちに予習を済ましてから、しかし出来の悪い小テストの結果に眉間をねじったりした。
飛躍だけれど、こんな程度の凡俗が、誰か他人に手を伸ばそうとしたことを恥じたりもする。いやな思いは勝手気ままに結合してとんでもない結論を弾き出す。精神は統計に不向きなのか知らないが、母集団の取り方が、あんまりに極端だ。
こういう数字の論理でばかりものを考えるのに、数学の点が、ひどく出ない。十分条件くそくらえ。
とりあえず、澄川さんのことは探すつもりでいる。
独り善がりなのだから、無理強いするようでなければならない。
ただ。まだ何か、足りない。
「
「おまえ高校向いてないもんな」
喫煙所に赴いて、阿闍梨饅頭片手に言うと、このひとはまったく無遠慮だった。
「となりあけろ」
「あぁはい」
どっかり座り込んで空にふう、と吹く。俺が咳き込んでも、そら喫煙所におるんだからと、吸いさしたりしないのだ。
「何があった」
「一人、扶養したい女性がいまして」
「妊娠させたか」
「童貞も守れない男に何が守れるんですか」
「キレんなよ」
吸い殻を雑に潰すその男と、いつからこうやって話すようになったか忘れた。担任でも教科担当でもない、ここで行き会っただけの間柄なので。
「どうしてくんだ?」
「バイトして、二人分くらいなら……」
「そのために退学か?」
「……はい」
「やめとけ。高校出といたほうが後々楽だろう」
「そすか」
貴橋先生は、馬鹿みたいな速さでもう一本着火して、時が止まったような脱力の表情で空に煙を吹いた。
その瞳が少し、する、と滑る。阿闍梨饅頭を見ていた。
そういえばこの人は、京都に住んでいたことがあると、いつか聞いたような気がする。
「いります?」
「それ嫌いなんだよ」
「そすか」
阿闍梨饅頭。京土産。
あの人、京都から来たのか。
「彼女どんなだよ」
「彼女じゃないです」
「は? じゃあなんだよ」
「その人住む家ないんですよ」
「居候させてくれってか。断れよ」
「俺から頼んだんですよ。断られましたけど」
「なんでそんな手間を取ってんだよ」
「……」
「憐れみか?」
「いえ」
「……あー」
貴橋先生はやはり天を仰いでいて、俺は、この人にでさえも言うべきでなかったなと、阿闍梨饅頭の包みを引きちぎった。
そのときプラがのびて、ばつんと切れたとき、爪が人差し指の根元を裂く。痛いなあと、隣のひと同様に天を仰いだ。
「憐れみなら失礼だと言うとこだが」
「……」
「相手に迷惑をかけうると分かってる、おまえの独り善がりってんなら……お前の勝手だな」
「そうすね」
「にしたって馬鹿だなと思う俺の気持ちわかるか」
「わかります」
「馬鹿だなと思うような俺の自己嫌悪もわかるか」
「わかりません」
「じゃ、わかれ。
そういう、まあ多分相手のためになりそうなことにさ、わざわざ『悪い風になるかもしれんからやめとけ』と思っちまう大人の頭がいやなんだ」
「そすか」
「おまえは別にそうならんでもいい。おおかたのことは独り善がりで回ってる。
ただ、割合、人生が変わりそうな決断をしてることは忘れるな」
俺は、「はい」と。澄川さんくらい、改まった場の言い方で、大真面目に言った。
立ち上がって、普段はしないくらい丁寧に会釈した。この人は来年、教師をやめるそうだ。
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