05

 ガラス片がちゃららと散る、夜風が吹き込み忽然と冷える、俺はこわごわそちらを見た。


「……」


 割れ窓の向こうに誰がいるでもない。


 しかし視線を戻して、拳ほどのアスファルト片が卓上に転がっている。


「お客さん、大丈夫ですかっ」


 俺と、澄川さんと、しばらく何も出来ない木偶の坊になっている間、ただ「ええ大丈夫です」「はい」「ありがとうございます」と言って、状況回復を待っていた。

 亭主さんは手早く処理をしながら、「おまえ、そっちの火止めとけ」と女将さんに急ぎ言うあたり、焦燥している。


 果たして俺たちはカウンター席に移った。ガムテープで塞がれた穴が若干、風でふくらむ。


「やなことするやつもんだなァ……すみませんねお客さん」

「ねえあんた、通報」

「イヤァおおごとにすま。張り紙だわ」


 あたりの事々が済んでやっと、澄川さんを見た。頬と額が破片で切れていた。


「大丈夫ですか」

「はい」


 気付いた女将さんが手当を始めて、亭主さんが料理の世話と張り紙とをえっちらおっちらやっている間に、また頭が働く。さっきから妄想ばかりだ。

 こんなのは誰を狙ったでもない、馬鹿の悪戯だ。丁度、酔っ払いがうろつく時間帯だ。


 解決をしたとして、横見して、絆創膏を貼られながらまた謝る澄川さんの、何事も自分には起こらなかったみたいな顔が、息を吐かせた。


「ほい、これで」

「すみません、ありがとうございます」

「いーえ、ご迷惑おかけしました」


 けれど。

 その横顔の停滞と。


「……いえ、こちらこそ」


 はっきりとした言葉が薄皮のような何かを切った。

 これはだめだ。


「あの」

「はい」

「さっきの話なんですけど」


 せっかく話の腰を折ってもらって、幾度も秘密の開示を拒まれたのに、それで気勢が萎えてしまわないのは嘘だ。

 実のところはと言えば、気勢の萎えに従ってをやめたとき、はすなわち気勢からのことだったことになる。一時の衝動でそうしたと認めて恥じることを、みみっちい心胆が蛇蝎のごとく恐れている。


 このまったく内向的な分析を俺は、「さっきの話なんですけど」と話しかけたあとにやっていた。だから澄川さんの、子供みたいな、何をも放念したみたいな丸い瞳が、ずっとこちらをじっとして見ている。


「なんでしょう」

「すみません、えっと」

「助けさして下さいって、なんでしょう」

「……うちに住みませんか」


 唖然とさせた。

 そこで、「理由をどうつけたものか」と考えたのはつまり、もとよりある理由がとても他人様に明かせたものではないということだ。


「憐れみとかじゃなくて、下心とかもないです。独り善がりなんで」


 それは本当であろうけれども、もう少し、醜悪に説明した方が正確ではないだろうか。自己顕示欲などの系譜にあるような言葉を、的確に並べて、自分がどれだけ恥ずかしい考えでいるか開示すべきだと、俺はカウンター下で足を突っ張った。


 人情、優しさ、そういった言葉のすべて本当はこのみみっちい湿っぽい思いの綺麗ぶった表現だったのだと確信を得た――確信? そんなもの得てしまう頭はどうにかしていると、それくらい、了承する心づもりは未だなかったのか。

 一七にもなって。


「行き先がないならうちに来てもらえませんか。俺のためと思って」


 しかし、この人はものを言わないな。


「……澄川さん?」

「いえ、ちょっと、びっくりして。ごめんなさい」


 「ごめんなさい」。そこから始まる。


「お気遣いばかりしていただいて、本当にすみません。でも大丈夫です。これ以上、ご迷惑をおかけ出来ませんから」

「いや俺がそうして欲しくてお願いしてるんですけど……すんません」

「どうして謝るんです?」

「『自分がやりたくてやってるんだ』って、言われても……一方的にもらい続けるって変わらず嫌なもんだろうなって。遅ればせながら、思い当たりました」

「入江さん真面目ですね」

「別に真面目とかではないです。そういうの、下手くそだから、その分考えるんです」

「それ、真面目じゃないですかね。……たくさん気を遣ってもらってすみません」

「澄川さん死んじゃいますよ。さっきの石、絶対なんかありましたよね」


 独り善がりで通せよ。それが本当なうえ、汚いにせよ一番綺麗なんだから。憐れみ人情優しさなんぞよりましだろ。


「そのことでまた、ご迷惑おかけしたくないですから」

「したくないって、珍しいですね」

「珍しいですか?」

「澄川さん、あんまり自分の意志をそういう風に仰らないので」


 知った風な口を。




 もう、話を続けられなくて、黙りこっくり食事した。澄川さんは何を食べるにしても、ただ栄養を呑んでいるだけみたいな顔で、やっぱりこの世すべて他人事のようだった。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」


 俺は清潔に対する諦めを覚えた。


「澄川さん」

「はい」

「うちに来て下さい」


 メサイアコンプレックス、英雄症候群といった語彙を思い出した。

 言葉にすることで、なんて優しいサイズに収まったものだろうと思う。これはもっといやな形をしているものだ。


「本当にありがたいんですけど」


 頬を掻く仕草が、やっと人間的に思えた。

 それで息を吸った。


「ご迷惑おかけしますから、流石に」

「うちに来て下さい」


 十二時を越した夜が寒い。ほんとうに誰も居なくなってしまった商店街が……ああ商店街といえばそこの、細い路地、あそこに彼女は倒れていたのだった。


 彼女の表情を伺った。


「……勝手言ってすみません」


 また泣いていた。


「いえ、ありがたいお話です。でも……流石に、ご迷惑ですから」


 退くな。

 何で。

 いいから退くな。


「うちに来て下さい」

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