03
何あったんですか。
もうお礼等々の話を済ませて、もう話なんてない相手に、もうお帰りいただけばすべて終わりの相手に、わざわざと。
「あのときは色々……急いでまして」
「お疲れ様です」
「いえ」
これでしまいの話を。
「じゃあもう」
「はい、失礼します」
関わりの距離感を間違えた。しばしば手を伸ばしていいか否か考えて、それが独り善がりであることを、断念の言い訳にも実行の言い訳にも使う。そうして大方間違える。どちらも間違いだからだ。
と、憂鬱を終える。慣れた脳内議論で、結論は「どうしようもない」に行き着くことを知っている。
彼女は、澄川良子さんは、もう靴を履いていた。
「本当にありがとうございました」
「いえ」
ドアノブに手を掛けて。
蝶番の軋みが風の音を切って。
夕のちょっとした寒気が滑りこむのに合わせて、ヒールの足音に気付かされて。
それで顔をまっすぐにしたとき、澄川良子さんの髪がさわっと吹き上がっていた。
「さようなら」
「はい、さよなら」
またねでなければ寂しいと言うけれど、またねを言う余地がない。
それでそう言って、ドアが光を切りながら閉じたとき、少し暗い白熱灯の明るさになった。
「ええと」
わざと、心の働きを閉じるような感覚で言って、ちゃぶ台を見下ろした。空グラスふたつ、阿闍梨饅頭の包みと箱と、やぶいた包装2つ。
さて誰にやったものかと考えてから、誰にやることもあるまいと、やっぱり一人でしばらくの間食に食べきってしまおうと考え直した。
包みをくしゃり、潰す。
プラのとがりが指先をなでる。
「ほい」
暗い隅のくずかごに順繰り、順繰り投げる。近いのでみな入る。ふちに当って、こすり、こすりと乾いた音がする。
「……は」
ひとつ、掴んだものが柔らかく、手を止めた。ハンカチ。
「……あー」
見て俺は、引き延ばされた心地を覚えた。それにみみっちい、あるいは蒸しっぽい感想が連なって、立ち上がり調子に若干、素早さがあった。
靴を履き、ノブを回し、蝶番の軋みで風を切り、夕の冷気に滑り込むだけ。
「澄川さん」
見回して、もういない。
どうにか渡しに行かねば。彼女は俺を訪ねられるが、俺は彼女を訪ねられない。
―――どうでもよくないか。
「澄川さぁん……えーと」
どうでもよくないか。ハンカチの忘れ物くらい。何を誠実ぶって、手間取って、忘れ物を渡しに行く。それでなんでこう、止める気がない。
みみっちい、あるいは蒸しっぽい心根を見た。なんかこういうの、何か起こりそうでいいよなと。いくつだ。
「やべ、わくわくする」
ダッシュするのはハッキリしすぎて嫌なので、小走りする。小走りより少し速いのが自分に透けて見える。気持ち悪い。一七にもなってこんなことを。
錆びた階段を駆け下りるとき、鉄の音がいくつも残響する。速い、速いよ。
「すみません! 澄川さん!」
いないので今度こそ、駆け足になって気持ちさっぱりして、元より走って届ける方が誠実だと思った。気持ち悪い。
もう夕が桃色を越して、藍色に寄ってきた。彼女は霞だったように目に触れない。
夕が桃色を越して藍色に? 時間を忘れていた。どれだけ探したんだか。馬鹿だ。色々後回しじゃないかとかではなくて、無益にこれほどを払ったことが。ずっと気持ち悪い。
息が切れ、止まった。
「……は――……」
見上げて、暗くて、醒めて、寒くて、痛ましくて、恥ずかしくて、目が乾いて、喉も渇いている。半端田舎だから、ほんとうに誰もいない。ほんとうに、ぴったりと、自分一人しかいない。澄川さんもいない。
また商店街に行けば会える気がした。
そうしたら、あっさりと見つけて。
「澄川さん!」
それで。
「……入江さん?」
「あの、ハンカチ――」
彼女の目端からひとすじ、光っていた。
だから何あったんですか。
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