02

 夏休み明け。

 特に変わって欲しいでもない、何も起こらないでいい、ただの昼の種々の音を窓辺で聞いていた。土曜の半ドンなので、この現代文が終わり次第帰るわけだ。

 その帰宅風景を思っていた。昼のひとりぼっちというのはどうしてこう、気分によいのだろうか。晴れ空の下を田んぼの脇道のアスファルトを、ひとりとぼとぼぼうっと行くのが心地よいのは、しかし家に帰ってみれば不意にどうでもなくなるのは――黒板にうっつけて砕けるチョークの音。我に返った。


「はい、以上、今日は早めに終わります」


 「起立」、椅子と机のがたつく・引きずる音がする、俺も立ったとき、左腕に陽があたる。


「気を付け、礼」


 ありがとうございましたを言った。それであちらこちら、いい具合に騒ぎ出した。

 いい具合というのは独り心地になれるからで、別に人嫌いではないけれど、周りの音すべて雑音に終わることが尊く思われるのだ。


 閑話休題、俺は荷をかつぎ、さっさと教室を出て行き、さっさと校門をくぐってからもう、想像通りの帰路を始めていた。


 そこら澄んで見えて、終わりかけの夏日も快く、帰ってしばらく眠りたい気分になる。夢想のような非日常感を、家の日常に帰ってしまって損ないたくないのだ。なるほど、それでこの気分は、家に帰ったとき霧散してしまうわけだ。今日は普通の朝昼夜をしたくないと思った。


 それとあとは、道が細いので徐行する車に気を遣って道端に寄るとか、そのしばらく後連れ合う男女が自転車で追い抜かして行くのとかを見た。これ以上、この帰り路に語る事が無い。そういう帰り路だから、快く思われた。


 アパートに、帰り着く。


「……あぁ」


 玄関前にある女性が立っていて、ああ、まだ何か夢想のような気分が続きそうだと思った。ふた月たったけれど、その人のことを覚えていた。配達員でも保険営業でも新聞営業でも、宗教の人でもない。

 あの人はどれくらい待っていたんだろう。また熱中症になったら、どうする気だろう。どうしてあれほど自分を大切にしないんだろう。

 錆び鉄の階段を上った。


「あの」

「あ、すみません、どうぞ」


 俺が、通行迷惑で声をかけたのだと思われた。


「多分俺ですよね。入江純です」

「あぁ、そっか、よかった。

 先々月助けて頂いた、澄川良子です。その節は大変お世話になりました」


 あのとき分からなかったけれど、このお姉さんは、もとより肌が白かったのだ。

 鶴か雪女と同じだ。




 渡された菓子折ひとつ。阿闍梨饅頭。しばらくのおやつにするか、仲のいいのにでも配るか、密かに悩んだ。何せ一人暮らしなもので、とても全部食べようとはならない。


「お礼金なんですが」

「別にそういうのいいですよ」


 用意していた言葉を投げた。多分愛想笑いも上手く出来ていた。

 それで、さて。


「いえ。ご迷惑をおかけしましたので……すみません」


 この人はきっとこういう言い方しかしないだろうと思っていた。だから、それに返す言葉も予めにあって、けれど言うかどうかを迷った。

 幸の薄そうな顔の人である。そのうえ今見てみれば線が細すぎる。適切に食べている人ではない。覇気は全然、人並み以下の、見当たらなさ。

 言うことにして、しかしその後どうするかを決めていなかった。


「私、おいくらほど」

「お金の話めんどくさいんで」

「……すみません」


 これほど人格の分かりやすい人も中々いないと、額を二指で掻き、思った。

 きっとこの仕草にも彼女は。そう考えて、悟らせないよう視線だけあげると、やはり縮こまっている。いま睨むような目かたちなので、見せてはいけない。


「どうすればいいでしょう」

「ほんと、別に、いいです」


 静かになった。


 ――施されたぶんは返さなければ気の済まない、気に病む人種がいる。そういう相手に「別にいいです」と言うのは、当人のためにならない。当人のためを思うなら、むしろ何か施す機会をご用意すべきだ。

 ただし当人のためを別に思わないというなら、その限りでなく、このまま帰って頂けるとありがたい。俺はそういう嫌な一七歳になって、沈黙を保った。


「私のこと助けて下さいましたよね」

「何か欲しくって助けたわけじゃないんですよ。助けるより助けないほうが疲れるからってだけです」

「いい人ですね」

「普通でしょう」


 落ちているごみに見て見ぬふりする程度には怠慢で、しかし行き倒れている人にそうはできない、それくらいの普通人だ。


「いい人ですよ」

「普通です」


 人間性って、少しこう話すだけで、あんまりにも透けるものだ。不思議な人なんてのがそうそういない世の中に思われる。


 俺は冷蔵庫から漁り取ったアクエリアスを、自分の彼女ので二杯注いでから阿闍梨餅もそう用意した。戸惑われた。俺は本当に、相手の恩返したさとかそういうの、どうやらどうでもいいらしい。

 どうぞを言ってまた沈黙になって、彼女は幾度もこちらを伺う。


 ――伺う。つまり御機嫌を伺う、怖い物の様子を見る。そういう人らしかった。


「澄川さん」

「はい」


 返答がきれい過ぎた。職務を果たす人の声格好だ。


「……いえ」


 どうしようか。

 別に青春のロマンチシズムが働いたわけではない、けれど、また行き倒れさんが転がっているような心地になったのだ。

 だからといってどうこうしたなら、。ラインってなんだ。いいや、なんだって言ったってあるだろ、ライン。


「……やっぱ、あの」

「はい」


 また、きれいに、従順に。


「聞きたいんですけど、あのとき、何あったんですか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る