第50話 振り向けよ!
終幕の挨拶を置いて外へ出ると、冬の風が強まっていた。どこからか、焼き鳥の匂いが漂って、雪は、春の暖気に曝されて、溶けかけた飴のように踏む度パリパリ音を立てる。ビルとビルの間を抜けて、路上へ出るサクラさんを見たとき、「あ」思わず声が出た。彼女は私に気が付かず、頻りに顔を触りながら、足跡を付けて行く。木元は彼女が客席にいたこと、気が付いていたのだろうか。そんな素振りは見えなかった。彼と面を合わせて欲しい。一度だけでいいから、何かを話して欲しい。本当に捨てたいものは捨てられたのか、でも、そのためには捨てたくないものを捨てなきゃいけない。彼女が捨てたものはここにある。
頭の中では思うのに、彼女を呼び止める台詞は出てこない。そういう台詞は、全て脚本に置いてきた。今の舞台が全てだ。これ以上言えることは何も無い。これで駄目なら、もう私は彼女には通じない。胸が苦しくなった。雪かきで、隅に積まれた腰の高さくらいの雪、表面はもう薄い氷で、掴むと手の甲が引っ掻かれた。手の甲が真っ赤になった。掴んだ雪、それを、投げつけた。
もう彼女はいない。投げた雪玉は劇場前を通った、誰かの足跡を埋めた。私は路上に向けて雪を投げ続けた。振り向けよ! 強く念じながら。その内出入り口の方から観客が出てきた。舞台の感想を話し合い、そこには私の期待を裏切らない喜びがあった。彼らは雪を投げる私を見、なんだこの女はと困ったように立ち止まる。私は彼らに会釈をして、雪を投げるのを止めた。誰も、今の舞台の脚本を書いたのは私だとは思わないだろう。満足げに道を通る彼らを、雪を握ったまま見送った。
雪を握り絞めていた、指の間からは、悔しさ、涙、それに似たものが流れ落ちた。
もうサクラさんはここに来ないだろう。木元が舞台をやっても、多分。そう思うと、無性に自分の力不足に苛立ち、そのやり場も無い。
もっと良いものを書きたい。書きたかった。でなけりゃ、伝えたいことも伝わらない。そんな当たり前のことに、今更気が付いた。
こんな思いを、あと何度味わうのだろう。途方もない。
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