第49話 いつの間にか、こんな人生だったんだ

 以前注目を浴びたときの名残があったのか、平日の火曜水曜、昼夜二回、合計四公演だというのに、チケットの捌けは好調らしい、事前に顔を通している受付のスタッフに、その日の空席を教えて貰う手筈なのだが、前売りの段階で、結構埋まっていた。火曜の仕事を済ませた後には、そのまま地下鉄に乗って二十時からの公演、けれど、ホームの、疎らに立つ人間たちが、これから自分を評価しようとしている、するかも知れないという思いに取り憑かれた。スマートフォンを弄る若い男性、静かに話している二人組の女性、そんな人々の自分を見る鋭利な視線が身を竦ませる。心臓が不吉なリズムで鳴り、喉が渇く。舞台まで送る車内は静かだ。乗客の外套が暖房で熱せられ、冬の怜悧な匂いが漂う。それだけが、一駅分の慰めになった。

 駅を降りてからは、大通り公園の喧噪を抜け、誰かの踏んだ雪の後を追う。奇しくも、前の職場のすぐ近くに劇場がある。煉瓦造りの建物を横切って、ビルとビルの間を抜ければ、劇場の前で人待ちをしている観客数人の顔。緊張は度を超すほどになり、無意識に、脚本の欠点を今更探す。頭に浮かぶのは、辛いことばかりで、この舞台を酷評されたら辛い。本当に辛いとまた怖じ気が出る。

 けれど、私が立っているここが「今」だ。過去は遠く、どうしてこの「今」に至ったのか? その細部は思い出せないけれど、後ろを向けば、確かに私の足跡がある。今にも雪に埋もれようとしているものの、「いつの間にか」ここに立っていたわけでは無い。そこで、ようやく気が付いた。私は誰にだって、自分の過去を不知顔で過ごして欲しくない。今と昔で性別すら変わっていても、誰にだって変わらないものはあるはずだと、信じていたい。河南の作った「理由」とは、それなんだ。私が観客に求めていたことは、ただそれに気が付いて貰うだけなんだ。他人の人生を変えるだなんて、そんな偉そうなことは思っちゃいないけど。

 後ろの人に押されるように中へ入り、他の観客と擦れ違う最中にふと、花の香りが漂った。河南の発していたものとは別種のものだったが、既に多くの人間がひしめく劇場の中、その源は見えなかった。自分の席に座る頃には、抱いていた恐怖は消えた。この舞台で駄目なら、また書けばいい。開き直るようにそう考えて、後は舞台の空気が劇場を充溢するのを、暗がりに身を潜め、満喫した。

 舞台は想像以上に水気があって、台詞の無い動作、会話の間が存分に振るわれた。舞台袖から、女性に扮した木元が出てきたときは、客席から密かな笑い声が上がった。けれど、彼の演技は不気味な程艶めかしい。ウィッグを被っているわけではないが、ふと本当にそういう人だと見間違うくらい、堂に入っている。彼は店員で、店に訪れる客達、店員と紡ぐドラマの中で、一人、また一人と居なくなる彼らを見送る。そして、孤独になったと思われたときに、彼の前に一人の女が現れる。彼らの発する台詞は殆ど頭に入っていて、舞台の上の人間が口を開く瞬間、ほぼ無意識で言葉を追っていた。けれど、役者たちが勝手に入れた動作、言葉が集中を打ち破り、だからといって、それらが邪魔になっている印象は無い、モノトーンの世界観に、むしろ他人の彩りが加えられた。

 ――客席は自分以外、誰もいないかと思うほど静かになる。小さな咳の音も、衣擦れの音すら聞こえない。けれど周りを見渡せば、確かに人が座っている。彼らの緊張は舞台に向かって張られて、何かが前を過ぎれば大きな音を鳴らしてしまうほど、力強く張っている。出入り口に近い左手前方に、見覚えのある顔があった。

「ねえ、なんで女になんてなろうとするの?」と、役に入った河南が尋ねる。木元はいつか見たような、雅な動作でタバコを付ける芝居をした。「なんでだろうね?……いつの間にか、こんな人生だったんだ」

 劇場の静寂は、誰かの啜り泣く声で破られた。それはあちこちから上がったが、他人の緊張を絶つ程では無い、むしろ、それも演出の一部として舞台の表現に加えられた。黄昏の、まだ店の開かないときに「今度、結婚するの」と女は告げた。男はしばし黙って、店のテーブルを拭き、視線を上げないまま、厳かに祝福した。今日が発つ日と言って彼女は、音も無く店から出て行った。舞台の照明は右袖、店の出入り口の方から差している。男は、女が消えたことにも気が付かずに、一人で喋っている。既に消えた人間に語りかけるように、「何故自分がここにいるのか?」そのことばかりを考えている。

 女が消えたことには、彼が太陽の方を向くまで気が付かない。潮が引くように日は落ちて、ふとそちらの方を見た彼は、それから一切口を噤んで、店を開く準備に取りかかった。

 客席左前方の女、横目で灯りを見送った。恨めしそうに、細い涙を流し、完全に舞台の日が落ちると立ち上がる気配、口元を抑える影が蠢き、まだ暗いままの劇場を、静かに縫って外へ出た。

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