第48話 宝島

 私に出来ることはもう無いだろう、というところまで行き当たった。脚本が書き上がった朝は、青空が見えていたが、静かに雪が降っていた。ベランダの窓を開けば、篭もりきっていた部屋の暖気と、風の無い外の冷気が、私の顔の辺りで優しくぶつかりあった。自分の口から白い息が出る様を見るのは楽しい。景色の色は、雪が吸ってしまって、その生気の無さは夏の夜に似た。けれど、玄関口で雪かきをする子供が見えて、やはりこの世界には生きている人間がいるのだと思った。味わうように深呼吸をするうち、雪の何片かが、蛍のように私の口に入ってきたが、全く不快では無かった。その後は、暖房を切って、窓を開け放したまま、風呂に入った。

 ――私に出来ることはもう無い。面白い舞台になるかは分からないけれど、書くに至った道のり、時間だけが私に勇気を与える。


 *


 一月も終わる頃に、舞台セットの搬入に駆り出された。日曜で、木元の運転するミニバンは朝に来た。車道に積もっていた雪を、不器用に避けることもしないで、ゆっくりと私の家の前まで前進した。助手席には、凍り付いた表情の河南が座っていた。車内では何故か吹奏楽の「宝島」が一曲リピートで流れていた。踊るようなリズム隊、管楽器の力強いサウンド、それらが陽気な旋律を奏でている。

 後部座席には誰も座っていなかった。ガタイの良い男は寝坊、近くで見れば美人の女は仕事、のっぽな男の所へはこれから向かうという。ミニバンは発進するときに、エンストを起こしたように車体を揺らした。油断をしていた私は、むち打ちになるかと思うくらい首が伸びた。助手席に座っていた河南が、「左足使うなって!」と怒声を飛ばした。どうやら、右足でアクセルを踏んで左足でブレーキを踏んでいたらしい。自分の足下を覗きながら、「雪が……氷が……」という言い訳も、「前!」という河南の警告にかき消された。長らく見ていなかった彼ら二人の雰囲気、微笑ましく思いつつも、この運転で国道に出るのだろうかと、私もまた青ざめる思いでグリップを握り、衝撃に備えた。

 舞台のセットは、すすきのから一駅分南下した中島公園駅近くの倉庫に保管されていた。繁華街の気配はすっかり遠く、外壁に雪をこびり付かせたマンション、アパートが建ち並ぶ。駐車場にはワイパーを上げた車が、外套のように分厚い雪を被っている。中島公園の外縁には、葉の落ちた代わりに白くなった枝、菌糸のように伸びて、わなわな風に震えている。のっぽな男はシャッターを備えた建物の前で手を振っていた。車内に「宝島」の旋律を残して赴くと、シャッターがあるからと言ってここから荷物を搬出するわけでは無いらしい。普通に鍵の開いた入り口から入り、三角コーン、パイプ、砂の詰まった麻袋など、工事に使うであろう物資の中に、劇団のセットがあった。

「ここ、爺ちゃんの会社なんですけど、ちょっとだけ使わせて貰ってるんす」木組みの椅子を持ち上げたのっぽな男が説明する。他には棚やガーデンテーブルなどあるが、どれも絶妙な使用感、これは全て、長年木元が、中古家具屋を回って手に入れたものらしかった。よく見れば、テーブルの裏にアニメのシールが貼ってあったりする。バーカウンターと、背丈ほどある棚がくせ者、これらは他の家具と一緒にはバンに入りきらない。小劇場まで運び込めば、後は気の利いた劇場スタッフの手伝いもあり楽になる。けれど、全てが終わる頃には「宝島」を何周したのか見当も付かない。昼頃になると、ハムみたいなダウンを着たガタイの良い男が寝癖を付けたまま劇場の搬入口にやってきた。彼を見るなり、木元はずかずか歩み寄って頭を引っ叩いた。

「バカヤロ。テメー、裏方の癖に何サボッてんだ」

「いや、スケジュール間違ってたのアンタでしょう。今日中に場当たりするったって」

「っせーな、オラ、さっさと設備チェック行け!」

 今度は尻を叩いた。叩かれた方は、びくともしないで大きな欠伸をしながら、のそのそ劇場の中に入っていった。

 木元の口調は全く聞き慣れたものでは無い。のっぽの男も河南も平然としているから、あれが異常というわけでも無いらしい。そういえば、酒の席で彼はスマートフォンを弄るばかりで他の劇団員と話している様子はあまり見たことがなかった。

 舞台への運び込みを終えてしまえば、私にはもうやることが無い。演出と舞台監督を一手に熟す木元、書類を片手に早足で劇場を歩き回ってあれこれと指示、稽古場でも散々位置を確認していたから、劇団員たちも要領よく物を設置、見る間に、ワンシチュエーションの非現実が浮かび上がってくる。私は客席を歩いて回った。段差の付いたベンチ席で、舞台に向かって収縮していく。照明設備の確認のために、会場の灯りがゆっくり明滅し始めた。すると、三段目のベンチの影、細長い藍鼠色の物体が目に付いた。暗くなれば光、明るくなればそれがやけに暗いのだ。拾い上げて見ると、誰かの忘れ物なのか、女性の巻くようなスカーフ、端から黒い足跡を付けて、こちらを見ている白い狐。その日は、劇場近くの定食屋で昼を済ませたあとは、場当たりを見学することもなく家に帰った。

 本番は明日明後日だった。

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