第47話 私が再び脚本を書くまでの話

 河南と階段を下りることに、それが初めてかのような新鮮さを感じた。実際には、階段を上り下りしたことなど何度もあった。擦れ違うものは誰もいなかった。彼女と並んで扉の前に立ったとき、そこは様変わりしているように見えた。ここへ最後に来たのは、サクラさんが、まだ帰って来ると信じていたとき。木元はどうなんだろうか。そういえば、深夜に私の部屋に来たとき、マスターに髪を切ってもらったと聞いた。

 時間帯なのか、時期なのか分からないが、店内には客が一人も居ない、カウンターに立っていた男は、私の顔なじみの店員だった。彼は、サクラさんがタイへ出立するパーティーのときに、私と同じテーブル席に座っていた。女装はしているが、一目で男と分かる顔立ち、肌は異様に手入れをされていて、そこが少し浮いている。

 入り口に立った河南は、まじまじと彼の顔を見た。彼は、多分彼女の視線に気づきはしていたが、気付かないふりをして俯いて、氷を割っていた。アイスピックを振るう彼の長い睫毛が震えているのが見えた。私たちは入り口に近い方のテーブル席に座った。店内に音楽は無い。注文した酒は、この店に初めに来たときに飲んだカクテルだった。河南は私と同じ物を頼んだ。

「ここ、木元に連れられて来たんだよ」

「木元さんが?……もしかして、結構前にスポンサーがどうのって言ってた?」

「そう、その繋がりで。その人が、ここの店員だったの」

「へえ」

 それから彼女は、察した様子で店内を眺めた。私は、彼女を早くここに連れてくれば良かった。彼女とサクラさん、二人の接点がこの世界に存在しなかったことが、今更痛い。彼女と同棲し、バーに足繁く通う時期には、そういう考えが思い浮かんだことが何度かあったけど、結局実行には移らず終い。そういう運命で、元々不可能だったのかもしれない。アサガオとヨルガオの、開花の時間が合わないように、互いの蕾の、隠した顔も知らないままで、終わりが来るのをただ待っていたんじゃないか。「舞台のセットに似てる……」小さく呟いた。それから、何かを思案するようにテーブルの縁を睨みながらカクテルを飲んだ。

「不知顔って、どうしてああいうタイトルなんですかね」

「どうしてって?」

「沙織さんは、どういう思いであのタイトルを付けたんですか」

 改めて聞かれれば、「不知顔」という単語は私の中でどう発生したのだろうか。何が呼び水になったのか? 考えたこともない。言葉は、いつの間にか芽生えていた。何時かの折りに、辞書を開いてその字を見たのか、何かの歌詞か、和歌か。何となく、答えは家の本棚にある気がした。確かめる術は無い。古い書籍は殆ど捨ててしまった。しかし、何故不知顔、込めた思いが、初めと今とで変貌したことは確か。自分を変えたいという欲求から、他人にそれを願うまで。

 しばらくの間、河南への返答を忘れて考え込んでしまった。怪訝な顔をした彼女の瞳を見て、私は何かを言おうとした。けれど、上手く言葉にすることが出来ないような気がした。そして、また思いを巡らすことを繰り返した。彼女は辛抱強く私の言葉を待っていた。それで、ようやく思い出した。

「河南が最初に言ったんじゃない。私に」

「え?」

「知らない顔は、もう止めてって」

 地下鉄の中だった。後ろに立っていた男に押し出されて、彼女と向かい合ったときにそう言われた。

「嘘。私が?」

「河南が言ったんだよ!」

 私は笑った。こんなに簡単なことだった。河南が私に脚本を書く切っ掛けを与えた。捨てたと思っていた関係は理由に変わって、ずっと私の中にあったのだ。あの熱い嵐の夜、そこから脚本を書く今に繋がっていた。同じように、彼女と触れ合った記憶の錯綜の中から断片が、次々と今に向かって繋がりを作った。弛んだものは一つとして無い、カウンターから、グラスの縁と縁が軽く触れ合う音が小さく鳴った。きつく張った細い糸が、指で弾かれたような涼しい音だった。

「だから、私は河南と出会って良かったんだ」

 彼女は一瞬眉を強ばらせた、それから、遠い景色を臨むように、真っ直ぐに私を見て、「私も、沙織さんと会えて良かったよ」笑って言った。

 そういう事実を発見しあえば、彼女との間に、調律された気配が生まれた。どちらの斥力も強すぎず、音がぶれない程度に張っている。この関係は無かったことにはきっとならない。いつだって振り返ればそこにある。これからはずっと。

 それから、私は脚本を書き始めるまでの話をしてやった。

 筋は脚本によく似た、消えた男と、残された男の話だ。長い話だった。間隙が出来る瞬間は何度もあったが、お互い脚本の出来に付いては話し始めることもない、それは知らない顔をしていたというわけでは無かった。本当に良いのか悪いのか分からないのだ。繰り返し何かを紡ぐ中で、世間というものが遠景のように霞んでしまって、自分が表現するものの、性質が正であるのか負であるのかを見失ってしまう。

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