第43話 相羽、来ん?
「劇団畳もうと思ってるんだよ」と、彼は言うのだった。
「はあ」
初め、ただの弱音と思い、「何言ってんのよ」笑っていたのだけれど、彼の青白く思い詰めた顔、酒にも手を付けないで、俯いて、目の縁を赤くしていたからこれは冗談じゃ無い、慌てて「なんでさ、木元、皆と今まで頑張ってきたじゃない。なんで急に」とまくし立てる。
「俺には才能が無いじゃないか」
才能だって。
どうして、その言葉を言い訳みたいに使ってしまうんだ。
彼は、私がどう言うのを期待しているんだろう。木元の頬は痩けていた。長い格闘の後のように、彼は疲れ果てていた。「才能はあるでしょ」と言えば良いのか、「まあ、そうだね」と同意すれば良いのか。
「畳むったって、それからどうするのよ……」
「俺の実家、旭川にあるんだけど、帰ろうかと思っててさ」
「旭川……」
「相羽、来ん?」
「ん?」
話の脈絡が分からなくなった。
「だから、旭川。相羽、来ん?」
来ん?
彼の単純な誘いは、私の頭の中で長く反響した。その間、私も彼も何も言わなかった。向かいのテーブル席の若い男達は、狭い世界で笑い合っていた。店員が、新しい酒を持ってきた。彼女の細い手が私の視界に入って、周囲に人がいることに気が付いた。そして、いきなり顔に血が上った、汗が噴き出てきた、頬が腫れ上がったような気がする。
これはプロポーズなんだろうか。いや、そもそも私は木元と愛し合っていた自覚なんて無い。皆無だった。セックスをしたことだって、当然無い。私は木元に愛されていたのだろうか。
「何それ。結婚しろってこと?」笑いながら尋ねた。冗談なのか、私の勘違いなのか、逃げ道を確保した聞き方だった。
「相羽がそうしたいなら、しても良い」
木元ははっきりと言った。それは何かの台詞のようだった。木元の実家で、両親の援助をあてにしながら、静々と暮らしている未来を思った。その世界の幸福を思って、一瞬胸がざわついた。途端に自分が笑い出した。横隔膜を引きつって、へっへっと声が上がった。けれど、それは泣き出したのだった。彼の言葉、雰囲気に、諦観が滲み出ていた。彼の諦観の先に自分が居たことが、無性に情けない。「なんでさ?」涙を拭いながらまた聞いた。多分、木元は俯いた私が泣いていることに気が付いていなかった。
「相羽が傍にいたら、生きやすいと思うんだよな」照れもなく呟いた。
私は木元を全力で殴った。
彼は壁に叩き付けられて、その拍子に、追撃のように色紙が一枚、彼の頭に落っこちた。卓の上のグラスも倒れて、彼のジーンズを濡らした。店内が静まりかえった。
「だったら、なんでそんな格好してんの?」
「格好?」
狼狽えたように自分の身なりを見る。無精髭を生やして、髪もぼうぼう、服もよれている。肩を見たときに、頭に乗っかった色紙が彼の腰の辺りに落ちた。それは彼の、神のサインだった。
「そういう格好をしていたら、いつかサクラさんが目の前に現れて、助けてくれるとでも思ってるんじゃないの?」
「んでそうなんだよ」
おちゃらけ半分、怒り半分の口調だったが、彼の顔は青ざめていた。
「サクラさんの幸せを応援するって言ったよね。あれ何だったの? 意味分かんないんだけど。彼女が居なかった頃の自分に戻るのが、そうなの? だったら、サクラさんって木元にとっての何だったの? 誰も居なかったのと同じじゃん。木元が舞台を作り続けるのがそうなんじゃないの」
「お前に俺とミチヒコの何が分かるんだよ、お前だって脚本書けねえだろーが。自分のこと棚に上げてんじゃねえよ!」
私は鞄から脚本を取り出して、卓に叩き付けた。溢れたレモンサワーがあっという間に染み込んで、今まで私の書いてきたものが、書いてきたことそれ自体が貶されたような気がした。綴じもしていない、紙は散らばって、一番底の方は水気で文字が滲んだ。私は、息を荒らげながら、それをじっと見ていた。木元に怒鳴られて、ビリビリに引き裂かれるよりも辛かった。
「無かったことにするなよ……」
そんな言葉が溢れた。
木元は、目を見開いて、体を丸めて一ページ目を見ていた。彼をよそ目に、鼻を啜って、置いた鞄を引っ張り挙げて店を出てった。多分、今の木元は、ここの支払いが出来るくらいには稼いでいる筈だった。それが余計私を腹立たせて、足早に琴似へ帰った。
潮時なんだろうか、演出家は脚本がいなくたってどこへでも行けるが、演出のあてが無い脚本はどうすることもできない。書き終えたものは、インターネットにでもアップロードすれば良いんだろうか。彼らの恥部を? 考えてもみれば、私は前に撮った動画と似た性質のものを、今、自分の手から作り出そうとしているのだ。ともすれば、それはおぞましい。個人の恥、憎悪、哀惜の全てが渦のように熱い。演出されなかった人々の悔悟は、芸術なんかじゃない。そもそも、私はこれを書き上げるのか。晩秋の風がカーテンを舞い上げて、獣の姿が一瞬映った。それは多分四足歩行だった。
いつの間にか、私は黄昏時の雪原に立っている。昔読んだ、雪は赤く光るばかり、何かの童話の挿絵にあったような風景だった。沈みつつある太陽の方には丘、私の周りには何も無い。杉の木の、伸ばした影も届かない。ただ、丘の麓に何かが立っている。逆光になっていて、私には影しか見えないが、ゆっくりと歩いて、丘を登っていった。足跡は、獣の影をちぎって入れたように小さく浮いていた。私はそれを追いかけた。追いかけても追いかけても、その影には届かなかった。丘を上がったところで振り返った。どうして、何かを追う影は美しく伸びるんだろうか、人の居ない街や、熱い嵐を後ろに、息せき切ってここまでやってきた。周りには千切れた誰かの影が、ぽつぽつと続いているだけだ。他に何も無い。遠くに杉の木、動かない太陽、それらが風景としてあるだけ。私以外には誰もいない。どんどんいなくなる。不意に鐘の鳴る音が聞こえてきた。夢の景色の、どこかが急に息を始めたのかと思ったが、それは現実で鳴ったインターフォンだった。
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