第44話 戻ってきた木元
玄関扉を開くと、瑞々しい香りが漂ってきた。木元は香水を付けてきたらしかった。髭を剃った彼の頬、汗が浮いて、何故か、以前結婚式場で見たスーツを着ていた。髪の毛は切りそろえられていたが、以前のような水気は無い。終電もとっくに無い、深夜だった。扉枠に肘を突いて、私の散らした脚本を片手に持っていた。しばし見つめ合った。
「このスーツ、ミチヒコから貰った奴でさ」内の刺繍を私に見せて喋り始めた。サクラさんの名前が、そこにはまだ残っている。「まともな服、もうこれしか残ってねえわ」
「うん」
「一晩にしては、頑張った方だろ。美容室は流石に空いてねえけどさ。店行ってさ、マスターに頼み込んで」
「うん」
「マトモな格好だろ?」
セットのされていない彼の髪は、マッシュというよりはマリモだった。それでも、前よりは随分ましだった。
「当て書きしたんだろ。あの役……なりたくてこうなったわけじゃない。私はいつだって、お前みたいな人間に憧れていたんだ」
彼は、私が当て書きしていた役の台詞をあっさりと、何も見ないで諳んじた。初めて脚本が現実になった舞台の感動を忘れられない。そのときも、確かこんな風に心が突き動かされたんだと思う。それから日々は始まったんだ。そのときから、今立っている場所まで、きっと足跡は続いていたんだ。私の足跡。私は、いつから人の影ばかりを目で追うようになったんだろう。どうして、他人の人生の輪郭ばかりを。本当のことは、いつだって目の前にあったのに。
「面白いかな」と聞いた。
彼は、「良いと思った。面白いかは分からんけど」と答えた。
「それは、最後まで書き上げてないから?」
「いや、俺には脚本の善し悪しが分からんから」
髪を切った木元の目許は、くっきりと明かりに照らされていた。秋の朝日はまだ遠かった。彼を照らしていたのは、アパートの通路の、貧弱な灯りだった。私たちが手を伸ばし続けて手に入れたのは、きっとそんなものなのだ。
「相羽は凄いよ。仕事もちゃんとしているのに、書き続けるもんな。俺なんて、演劇一本でやってるのに全然駄目だ。大して稼げもしねえで、他人に寄生してばかりだ。昔となんも変わんねえ」
きっと彼も、どこにも行けないところに行き着いたのだ。私たちは、また思春期に立ち返る日々に戻らなければいけない。
「私は、そりゃ逃げてばかりだったからさ。でも、もうすぐこの脚本も、書き上がる」
「やるかー、稽古!」
そして、木元は扉枠から肘を離して、アパートの階段の方を見る。
「泊まっていきゃいいじゃん」慌てて呼び止めて自分の無用心さに気が付いて、「いや、別に何をしようってわけでもないんだけど」と付け加えた。すすきのからここまでは、徒歩では一時間以上は掛かる。けれど、「や、歩いて帰るわ」と彼はあっさり言ってのけた。「つか、俺たちがそういう風になるのって、多分駄目だろ」
常識のように言われるから、それもそうか、と私も納得して、黙って彼を見送った。アパートの階段を下りた彼、もぬけの殻になった路上を、機嫌良さそうに歩いて行った。点々と生える街灯が、子守歌のように彼の行く先を照らしていた。彼はどこまでもどこまでも、あんな調子で歩いて行くような気がした。眺め続けて、書かねばと思った。これから始まる日々は物語にはならなそうだ。扉を閉めればまた一人の雪原だった。
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