第42話 冬の訪れ
自宅近くの職場に勤め始めると、大通りや、すすきのに立ち寄ることがめっきり減ってしまった。サクラさんの勤めていたバー、木元とよく行った居酒屋、河南が勤めていた純喫茶、劇場、それらは音も無く、どんどん遠い世界のものになっていった。一人でいると、今私が脚本を書いていることは、世界の誰にも知られない、自分の色が抜けていく感覚に陥った。……真っ白い雪原を走り回った子供の頃の記憶を最近はよく思い返す。それは体験した感覚のようでもあったし、いつか見た夢の記憶のようでもあった。足を突き上げる度雪が散った、蹴躓いて転んだって痛くもない、無邪気で、どこへ行くかも決めないで走り続けた。次いでサクラさんのことを思った。消えた彼女のことを思うとき、どうしてか、霊感のように感じる何かの気配、吐く息の暖かさが喉元にまとわりついて、今も、部屋のどこかで息づいて私を見ている。その生々しさ、濃密な、静けさという化け物。それが私に文字を打たせた。
どうやら私は自分が見た、木元とサクラさんの物語を綴っているらしかった。勿論、細部や展開は脚色しているから、第三者が見ては勿論のこと、もしかすれば、木元すら気が付かないかもしれない。けれど、それはあまりにも希望的な予想、冷静になって考えれば、私のやっていることは激怒されても仕方の無いことだった。「作りものだからって、こんなこと許されるわけねえだろ!」彼の怒鳴り声は、書いているうちに何度も何度も蘇った。幻聴が孕んだ彼の悲哀、怒り、やるせなさ、その全部ではないにせよ、自分に向けられていたのかもしれないのに、そのまま自分の感情の深いところまで落とし込まれて、私のものになる。彼の感情が、私の心を何度も捻じ切って、何度だって涙を流した。だからと言って、書かないではいられない……。関係を断ち切って一人になった末に、最後に残っていたものがこれなんだ。想像の人は過去にいて、彼女はもう私の前には現れないかも知れないけれど、少しだって救える台詞を、いつまでだって紡いでいたいんじゃないか。というよりは、人を傷つけた私だから、紡がなければならない。観客が、来し方を思う脚本は、もう止めにしたい。それを目指す。多分、静かな夜を繰り返す内に私は正気を失っていた、羞恥心を喪失した、週末には、時間を飛ばしたように夜から朝を迎えた。私は殆ど、執筆をするために働いていた。多分これからもそうなるんだろう。書き出すものが伝わらなくても、そうしていくんだと思う。決意と言うには低俗すぎて、諦めというには道のりが長すぎた。これは多分、私の才能の結果だった。中途半端に文才のようなものがあって、プロになれるほどの根気が無かった。中途半端なところに立っていて、そこからどこにも行けなかった。文字数が増加するほど、息づく気配が強まった。部屋に漂う臭いは獣の臭いだった。獣はいつも隙間にいた。半端に閉じたカーテン、開きかけた扉、文字の隙間、行間、それらの間から、獲物を捉えたように瞳孔を広げて、私を見つめ続けた。それが発するのは、明らかに野生の、神々しい殺気だった。それは誰の怒りだったのだろうか。いつかは私の前に、実態として現れて罰せられるか。
十月に入って、今年はこのまま冬が来るのだろうかと思った。職場では順調に仕事を覚えつつあった。ただ、ボスに、私が夜更かしをしていることを見破られて密かに注意された。木元から連絡を受けて、私はようやく、長い間を職場と自宅の行き来だけで過ごしていたことに気が付いた。いつもの居酒屋で約束を取り付けたあと、急いで終わりかけの脚本をプリントアウトした。あらすじも登場人物一覧も付けていなかったが、中々、それらしい重量感だった。あとはワンシーンだけというところだ。
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