第29話 レモンサワー
二十日くらいで帰国するというサクラさんを、私たちは待ち続けていた。刹那的な躁を越えて、揺り戻しのような鬱の期間、目に付く、生活の様々な物事が心配の対象になった。帰宅してから一心不乱に資格の勉強をしたり、怯えるように仕事に打ち込んだり、無闇に河南を抱きしめた。色々なことに必死だったが、何かに取り組んでも、他の何かの方が優先順位が常に高い気がした。「最近、ちょっと変ですよ」と、河南に言われる始末、何気ない言葉にも不安をかき立てられる自分がいた。
そして、思い出したように木元と会った。いつもの大衆居酒屋、木元が書いた真新しいサインは、彼の神とはかけ離れたところに貼りつけてある。いつもの儀式と挨拶を済ませた後、レモンサワーを酸っぱそうに飲みながら彼は自分のサインを見上げた。
「やっぱり、俺には相羽の脚本がなきゃよ。なんて言うか、一人よがりになっちまって良くねえわ」
彼は、心持ちやつれているように見えた。髪の毛も乱雑に伸びているようだった。香水は習慣として付けているようだった。服は、代わりがないのか、前の季節からそのまま春服を着ていた。「木元、最近しっかり食べてる?」聞いても、「食ってる、食ってる」と、適当にあしらわれるばかり、だからといって、それ以上彼に対して何をするでもなく、ただ痩せ細り、日々妖怪に近づく彼を見ていることしか私には出来ない。
「相羽、新しい脚本どう? なんかアイディアとかでも」
「無い、無い。もう私はからっきしだもの」
「嘘だ、絶対書けるべ。この間もちょっと直してくれたじゃん」
「忙しいの! 仕事!」
私が怒鳴ると、彼はちんと黙った。彼が「仕事」という言葉を聞くとき、何か重たい物を背負った顔をする。稼ぎが安定していないことは、彼のコンプレックスだったのかもしれない。社会に生かされていることを、彼は恥じている。「ごめん」彼は呟いた。「でも、俺好きだから。相羽の脚本。待ってるよ」
「私のことなんて待たなくても、勝手にどっか行っちゃえば良いんだ」
私も、少し怒りすぎたと反省した。
最近、許容量から溢れた不安が、苛立ちに変化している。無闇に他人を攻撃したくなる衝動に駆られる。そうすれば、誰かが私の存在に気が付いてくれるような気がする。勿論、この思いがまやかしだとは分かっている。捨てたノートに、何かが書いてある気がする。言葉が腐ることはあるのだろうか。
何かを捨てたい衝動に駆られていたが、何を捨てれば何が解決するのか分からないまま数日が経つ。衣服、本、中途半端に物を捨てても、喪失感を味わうばかり、人事異動の時期は刻々と近づいている。私の生活は色の無い、シンプルな形の組み合わせになっていった。人間関係の幾何学に思い悩むことは少なくなっていた。もう、私と河南、私と世間という、シンプルな二本の線があって、時々によって、それぞれを引っ張る力を調節するだけで良かった筈だった。なのに、今失っているのは私の腕力か、糸が切れたか。それとも河南か世間、そのどちらかが私を地獄に突き落とそうとしているのか。
一方で、サクラさんの帰国を心待ちにしている自分がいる。私にとって彼女たちは、人と言うよりは世界そのものに近かった。そして気が付いたが、木元に対する引け目はいつの間にか消え失せている。彼とも線が付いていた筈なのだったが、いつの間にやら無くなっていた。私が彼らに持ち始めたのは、別の時代に生きている人間のような親しみ。彼らはきっと厳かな時代の、物語の登場人物で、私は彼らの物語がずっと続いていくものと信じていた。結末というものが、頭の端にも登らなかった。そして、その物語に学ぶことが現代でも通用すると考えていた。
けれど、サクラさんは中々帰ってこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます