第28話 贈る言葉、そしてタイへ

 サクラさんがタイへ旅立つ朝が訪れた。七月の初めだった。太陽はまだ登り切っていない、早朝の札幌駅前の広場には、私たちのほか誰もいない。バーで働いていた面子と、特に親しい常連、そして私たちは、ロータリー、タクシーの側に立っている。

 手術の成功を祈るパーティーは、二日前の夜に行われた。勿論私と木元も参加した。彼は直前の公演が不出来に終わったことを心底悔やんでいた。どうしても、サクラさんに自分の最高の舞台を見せたかった、そう嘆いた。その日ばかりは、サクラさんはテーブル席に座って、同席したのは、私と木元と、仲の良い店員だった。カウンターには店長が立っていた。どう見ても男性の店長、手際よく酒を造る動作には変な色気が漂った。

「そんなに気に病まなくたっていいじゃん。失敗を糧にしてさ」サクラさんは励ますように言った。

「うん……」

 木元はくいとグラスに口を付けて項垂れた。

 サクラさんが身を乗り出して、「辛気くさいぞお前~」と、彼の天然パーマを乱暴に擦った。横から見てると、彼女の乳房がぶるぶる揺れていた。「相羽さん、私が居ない間ちゃんとこいつを操縦してやってよ。ほっときゃすぐ沈んじまうんだから」「俺ぁ泥船かよ」乱暴にサクラさんの手を払う。けれど、そんな動作にも親しみが籠もる。私たちは笑い合っていた。

 今回の公演も、私は見に行けなかった。有給前で普段以上の仕事を処理しなければいけなかった。私が脚本を担当していないからか、いつものような後ろめたさは無かった。

「木元、サクラさんを贈る言葉は何か無いの?」私が尋ねると、木元は困ったように笑って、「俺、台詞のセンスねえからさあ」と眼を擦った。それでも、彼はこんな台詞を不器用な口調ながら綴った。「俺は、本当のことを言えば、手術は必要ないんじゃないかって思ってる。でも、サクラさんがそれで幸せになれるんなら、応援するよ。俺はただ、サクラさんの幸せを祈っていられるんならそれで良いんだ」

 一秒の間を置いて、私の隣に座っていた店員が「愛じゃん」と囃し立てた。それで、木元の台詞は笑いとなった。店中が賑やかになったが、サクラさんだけは耳まで赤くなって、目許を抑えていた。

 

 そして早朝、彼女はタクシーの窓から私の手を握って、「相羽さん、木元のこと、本当に頼むね」と言った。

「任せてくださいよ」私は答えた。本当は、彼女に相談したいことが山ほどある気がした。インターネットを検索しても出てこなかった私の未来を、彼女だけが知っている気がした。けれど、次は木元が彼女と話す番だったので、手短にした。

 木元がタクシーの窓の近くに立つと、彼らは「じゃあ」と言ったきりで、何も喋らない、話し合うことは、もう何もないように見えた。それから木元が窓の中に顔を突っ込んで彼女と軽いキスをした。それは全く自然な振る舞いで、その場には夜の人間が何人かいたが、彼らの行為を茶化したり、囃し立てたりする者は誰一人いない。厳かで、雅な別れだった。そして、彼女を乗せたタクシーは行った。大きな通りを曲がったところで、姿は追えなくなった。まるで舞台から捌けたみたいに音も無い、朝の喧噪もまだ早い。

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