第20話 ノート

 二月の頃、木元たちは劇場を変えて「境界の人」の再演を行っていた。この舞台は、今や彼の代表作だった。高価な衣装も舞台美術も要らない舞台、動員が増えるほど売り上げが出る。「売り上げ」という言葉は、ある夜通話していたとき、木元の口から転び出た。彼は特に気にした風では無かったが、私にとってはかなりの衝撃だった。そもそも彼は再演というものを忌避していたはずだった。同じものをやるくらいなら、下手でも新しいものを作っていきたいというのが彼のスタンスだった。木元は木元なりに、大人になろうとしているらしかった。だから、舞台を芸術としてではなく、商売として扱い始めたのだ。今の彼を、サクラさんはどう思っているのか知りたかった。


 きっと私は、今の木元をサクラさんに否定して欲しい。ある夜、その気持ちの源泉が、彼と私の間に生まれ始めたギャップであると気が付いた。木元は自分のやりたいことで収入を得て、毎日好きなように生きている。私は職場で無視をされ、殺された気分で、それでも生き延びて、生き延びて給料を得る。この差は何だ? 少し前までは私は木元より優位なのだと考えていた。けれどこの現実、私に、全てを擲ってでもやりたいことは無いじゃないか。私には何も無い。付き纏うのは全て無駄、有っても無くても世間はうつろうじゃないか。


 自分の舞台が認められなくたって、生活費をサクラさんに負担して貰ったって、ちっぽけな神にしかなれなくたって、木元は確かに生きているのだった。他人の甘さに寄生したって、確かに全身全霊で生きている。生き延びているわけではないのだ。私が就職を決めたとき、私の中には確かに彼を侮蔑する気持ちがあった。就職した後、会うたびに、奢って、見下していた気持ちも、今考えれば否定できない。そのくせ今は、彼の選んだ生活が堪らなく羨ましい。頭を下げて、座付きの脚本家にでもして貰おうか、結構真剣に悩んだ。劇団の経営が立ちゆかなければバイトでもなんでも始めれば良い。年下にタメ口を使われるかもしれないけど、それでも全然良い。責任なんか今の仕事に比べれば殆ど無いからすぐに辞められる。けれど、新作を掛け無い今の状況、すぐさまそういう思いは霧散して、何が悪いんだ? そう考えていけば、全ての憂鬱の原因が「新作を書けない」ことに帰結する気がしてきた。

 ――新作を書けない。こればかりは誰にも相談できない。自分の世界の方程式は、自分の中にしか無い。「不知顔」を書こうとしていたときに、ノートに幾つかのアイディアを書いておいた。今開いて読んでみると、どれを読んでも、どこかで見たような気がしてきた。そのうちの幾つか、既視感の正体が自分の過去作であると分かったとき、頭を抱えるほどの自己嫌悪、私は何も変わっていない! 変わりたくても変われない。投影するのは自分の過去、抜け出せない思春期、思春期がまだ続いている。こんな思いをするくらいなら、古典をパクったほうが全然ましだ。

 玄関廊下の方から、雨に打たれたような花の香りが漂ってきた。

「またお酒飲んでる」

 そうして台所の方へ行って、冷蔵庫から取り出した何かを飲み始めた。こちらの方へ戻ってくるときに、急に足下に眼を止めた。屈んで、「これ」呟きながらゴミ箱に手を突っ込む。取り出したのはノート。

「捨てちゃうんですか?」

「うん」

「え~」

 私の向かいに座って、ペラペラ捲り始めた。大学時代からちびちびと使っているノートだった。書き込んだのは、断片的なアイディア、登場人物のこと、「なんか勿体ないですよ。本当に捨てちゃうんですか?」

「もういいんだよ」

 河南の手からノートを引っ手繰って、丸めてゴミ箱に突き刺した。……突き刺して、少しの間思考が止まった。体重が減った気がした。身軽にはなったが、無くなったものが自分に乗った重しなのか、体の一部なのか判断が付かなかった。

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