11. Welcome to Babel ③:曰く、道を拓く魔法

 バーバラビルロビーで醒めたとき、ももに鬱血感と膝に関節痛、追ってそれを体重と認め瞼を開いた。


「おはようさん」

「リシオンさん」

「おはよう」

「スピナさん」


 緋色の空を見るに、寝に入って十分も経っていなかった。


 リシオンは陽の烈しさを後光にして、またも影法師に眩み、スピナは夕色の極彩を白金髪にうつし取って、例の邂逅の見蕩れを思い起させ、かくも紅色はロード・マスレイに焼きこまれる。

 ほぅと落ち着いてからまた、膝の感が気に障るので首を転がすように怠がって確かめれば、レシーの小さくなって眠りこけるのが肝をなだめ、もう暫くの辛抱を決めた。小さな彼女のこめかみの窪みに中指を添えて撫で、均整な睫毛にかかる数本の髪を退けた。


「……何ですか?」


 リシオンは厄介な年長の顔をしていた。


「いやァ何ってロード君、ねェ」

「何ですか」

「何も何もあるかって! どうしたんだよこの距離感は」

「告白をしました」

「ほぅ!」


 驚きようがまた、彼の御方に似通っている。


「存外にやるもんだな、お前」


 とのお褒めに預かるけれど、薄ら寒く思われた。きっと必ずやあれは勇気とは呼びえず、感情と正対したかと言えば否であり、正道を外れており、与えられた名に恥じる放言をした、懲りもせず物を言った、ロードの頭に虫食い穴の走るようだった。


「ロード君」


 ぷちっと切れてしまいそうなスピナの細い声だった。


「はい?」

「顔、青いよ」


 このときリシオンは半ば以上洞察した。


「疲れてますね、多分」


 ももに身じろぎを感じ、すぐ痺れ始めた。それとは別に、起き上がる彼女の黒さあでやかさ白さ透き通りが胸の温度を引き戻す。目元を人差し指でなぞる寝ぼけ顔が、小鳥のように愛しく思われた。

 痺れたところに腕を立てられ、呻いてみる、けれど弱々しい。妙に笑ってしまって、レシーの夢見心地の頬笑が返ってくると、まったく紛らわされてしまった。


「おはよう」

「おはようの時間じゃあないけどね……ああ、そこ、ほんとに痛い」

「痺れる? ……でや」

「あッつ」


 リシオンの咳払いに差し止められて、あった気勢ぶん恥じらった。


「……すみません」

「お話、いいですかね?」

「はい」

「おっけいでーす」

「ンじゃスピナちゃん」


 スピナは小さく振れる程度に頷き、こぼれ髪を耳の裏にのけた。

 資料に目を落とし、


「本日より所定の……」


 しかし読み止した。


「どした。どうせ今日以降の宿の話だろ?」

「はい……でも」

「んー?」


 それをリシオンが後ろから覗く、そのわずか直前にチンといった。


 リシオンからまず姿勢を整え、スピナがそれに追っつけるのでレシーも振り返り、あらと迎えてロードを手引きし、エレベーターのほうに気付かせる。


「父さん」


 ぽかんとするロードを、オガルは横目にも見なかった。


「大変、お世話になっております。ロード・マスレイの父の、オガル・マスレイです」

「リシオンです。ご足労おかけしてすみません、今日はありがとうございました」

「私のほうこそ、大神といい、あなたといい、そちらの方といい、一生に一度は会いたい方と一遍に会えました」

「なんとま、過分に預かりまして……スピナちゃーん」

「スピナ・アリスです。お疲れ様でした」

「いえお気遣いなく。しかしリシオンさん、あなたという人は本当に若々しいですな。羨ましい限りです」

「ところが最近は腸腰筋がひどくって、ひどくって」

「嫌だな、分かってしまう」


 ロードはじっとした。オガルを見とめるや見逸らしたことは、リシオンに見取られてしまっていて目配せのお節介まで焼かれた。より直接なお節介も必ずやなさるに違いない、そういう性分のひとだと、視線を留めながら息は浅く萎まっていく。


「そういやロードく」

「あぁお構いなく」


 けれどオガル・マスレイはそういうひとだった。


「さて」


 ロードのひとつ前の長椅子に、オガルの重く見える腰が深く掛け、丸い背は黄昏に黒く塗られた。

 誰も何も言わなくなって膝の重みが退き、ロードは痺れにも動じ得ず、せねばならない何事かを延々思案しながら、彼の背のごそりごそりと動くことには動じる。長かった。


「父さん」

「ん」

「さっきはごめん」

「何も分かっとらんじゃないか」


 また元の木阿弥の沈黙がわだかまった。いっそう思案せねばならなかった。編んでは解いて編んでは解き、やっていられないので放り置こうと決め込んだとき黒い背がごそりとする。置くも何も、退かないものだった。


「父さん、いま、話をしてもいいですか」

「おう」


 息を吐く喉が細かく震えた。


「リシオンさんに弟子入りして、王都で、狩人になりたいです」

「だから何だ」

「何だって、何」

「だから俺に何をして欲しいんだ」

「許して欲しい、です」

「駄目だ」

「……なります」

「お前に出来るのか」

「出来るようになります」

「無理だ」

「出来ます」

「無理だ」


 声調が微かずつ、一言ごと、震えをより含んでいく。


「そこに居る人たちを見ろ。旅をして、立派な人たちだとわかっただろう。お前がそうなるとは思わん」


 レシーはこのとき物言わずにいた。誰も彼も優しいのだとロードは思った。


 ほんの十度程度、父親の首がロードの方に向いて肺が縮こまる。きっと黄昏や黎明と同じく、ほんの短いことで、地平線に陽がかすれていく僅かな間のことで、もはや空色は黒紫だった。


 それで今しかないと思わされた。

 ついにすぐ、言葉が繋がった。


「別に、決して、親なら子供を信じろなんて言わないし、期待しろとも言わないから、だから、僕が足りないのも分かっているけど、けどね」

「けどなんだ」

「なりたいものは、なりたいんだよ」


 これを吐き出した瞬間、なんとも癇癪じみていることに気付き、どう折檻されるか考えると肩が狭まった。


「……少しついてこい」


 その立ち上がる姿、影の高さに、覚悟を呑まされた。




 決して少しではなく、五人、暗夜の霧立つ北方山脈を分け入った。


イャルーテ避けて下され


 父が聞き知らぬ呪文を唱えると、草と木と虫は横に平穏に逸れ、道は少し獣道でなくなる。


リトレンありがとうリトレン幸あれ


 追って唱えるや這い戻る自然物を、ロードは呆けて眺めた。しかし隣でリシオンが「珍しい魔法だな」と、感心顔して口に手添えつ、退いていった草木を怪しむので口がせっつかれた。


「父さん」

「見たか」

「それは、もちろん」

「イャルーテで避けていただく。リトレンは感謝と祈念だ」

「はい」

「リトレンを忘れるな。通して頂いておいて、気を配らないで、損をするのはお前だ」

「はい」


 これでもう物を言わず進んでいくので、彼の横より五歩下がる。

 隣のレシーは真顔で居た。


「どうしたの」

「変なのよ」

「この魔法? ……ちょっとした、風系統の魔法じゃないの?」

「ううん、全然」


 ちょうど道にかかる倒木を見とめ、オガルがもう一度口ずさんだとき息が止まった。


 いっそ露骨に錯覚じみて、物の形がねじ曲がった。オガルはそのねじ曲がりの真ん中を行く。四人、追随すれば何事もなく通り抜け、「リトレン、リトレン」と奉じるような声、倒木の穴はぞンといって締まる。


「この魔法だけ教えておく」


 今から独立をするのだと思った。


「どうして?」

「心持ちの強いだけ、道はよく拓くからだ」


 このとき脇目に廃教会を見つけ、おどろおどろしく思われた。けれどオガル・マスレイという人の目筋は前方に向かい、草土を踏んでいく足音は一定で、「ヨッコラセ」のお茶化しすらなかった。


「ロード、この世界はどうして平らだと思う」


 不意で、平らだからですと口にしかけた。


「……星が砕かれたから?」

「なら何のために、大神は元のようになさらなかったか、わかるか」

「わからない」

「なら気を付けるんだ」

「何を?」

「愛し望んだものの正体についてだ」


 ロードは考えないうちに、思わぬうちに、リシオンの方を向いた。


「あー……」


 振り向いた先でリシオンは、困り顔などして後頭掻きもして、スピナとレシーの目も引かれてくるので「エー……っとなぁ……」と、らしからぬ様にする。しかし唇を引っ込め腕を組み天を仰ぐと話は早かった。


「要するにさ、あいつは世界を変えたかったんだよ。ファンタジーの力で、どうしようもないことをどうにか出来るって、本気でそう思ったんだ」


 ぼやきのように言って視線をはぐらかし、ちょうどその先には、例の廃教会が変わらず幽然と在る。盛者必衰、信仰のいずれ笑い種になること、瞳に宿る強光はかすれゆくこと、ロマンチシズムの滅びゆくことがそれで明らかにされているようだった。


 そのような残骸を横目にもせず過ぎて、父親は、上に歩を進めていく。


「どこへ行く気なの? 山頂?」

「行きたいのか」

「そうだね、こんなに高い山なら、きっと景色は綺麗だろうね」

「ならいつか行け」


 立ち止まる彼の前に大岩ひとつ、左右の隙間なく詰まって高くそびえ立つそれを確かめて、オガルは息を込めた。


イャルーテ避けて下され


 ねじられた風がひたい髪を巻き上げて、ロードは、歪曲する視界の中央に何もないことに気付いた。無明なのではなく、無であって、ほんとうは見るべきでないものを大したこともなく見つけた。

 中央とは中央一点であり、鉛筆で書いた「一点」の、実際的には細かな点の集合・面であるものとは異なる。理論上現実にありえない「一点」が視界上にあらわれた。


 オガルはそこに二指を添え、つまみを引いて剥くように広げた。

 ひと道、一気呵成に切り開いた。


「見えたか」

「はい」


 思わずして肝と腰のあたりが静かになり、見返しながら通り抜け、


リトレンありがとうリトレン幸あれ


 それが閉じていくのを見守ったとき、父の足の止まる音を聞いた。


「ここだ」

「ここって言われても、もう真っ暗で、何が何だか」

「スピナちゃーん」

「はい」


 花束のような灯りが点された。


「あァ」


 森にぽかり開いた穴の中央に、一軒ひどいぼろ小屋があった。あたり一面薄緑のノコギリソウが絨毯を敷いて、照らす灯りに夜露を光らせ、その中央にあるのだから小屋は素朴が際立った。


 歩み寄るに、さわさわと靴を濡らす草絨毯が染み感で気付かせ、わざとすり足で分けていくに、その微かな拮抗感が興を催す。

 三歩前に来て見上げた。なおもこじんまりとしている。ここらに幾らか住まうというケモノにあっさりと食い散らかされそうなものを、かつ本当に、あちらこちら継ぎ接ぎの建築であるのに、健在していた。


「父さん、これは何」

「建ててもらった」

「あったんじゃなくて?」

「お前が出発した日に頼んだんだが……しかしひどいもんだ。作業が日を跨ぐたびに壊されたんだろう。

 常夜灯が要るな、あの岩と木も退けてもらわんといかん」


 中指の甲で壁をうち、かすれ色の屋根を見上げ、肩を竦めてロードに見向く。


「いくらかまだ、話がある」

「なに」

「村のことは構うな。年長がどうにかする」


 いま初めてそれに思い至った。


「駄目だよ、父さん、みんな体が悪いもの」

「お前、王都で狩人になるんじゃないのか。どっちなんだ。はっきりとしろ」

「ごめんなさい。僕が長老を継がないといけないよ。滞留が終わったら帰ってくるから。……じゃなきゃ」

「食う物があればどうとでもなる」

「父さん」

「あんなささくれた村のことなんかどうでもいいだろ」

「そんなことない」

「それもどうでもいい。滞留はどうせ終わらないんだ、もう一生重要人物だからな」


 歯が奥歯の方に締まった。それを誰も言わないけれど、きしむ頬にあらわれていて、オガルは鼻で笑うように息をついた。それで暫く何も言わなかった。

 暫くというのは、ロードが顔をあげ直すまでで、あげるとすぐ真面目顔に正した。


「あの村がなくなるとしたら、それはもう、お前を生贄にやったとき決まっていたんだ」

「でも生きてるよ」

「だが選んだ」


 その肩を掴み腰を下げ、水平に瞳をあわせた。同じ萌葱色をしていた。


「教えておきたいことがまだある」

「最後の言葉みたいだね」

「そうかもしれん」

「やめてよ」

「ひとつに……ひとつにな、ロード。自分のでも、他人のでも、物事なんでも、悪いところを見つけたらいいところも見つけるんだ」

「わかった。いいところを見た方がいいもんね」

「いいや。逆にいいところを見つけたら、悪いところもひとつ見つけるんだ」

「どうして?」

「バランスを取るってのはそういうことだ。バランスなんて半端な言葉に思うかもしれんが、考え続けて選び続けるってのは、そういうことだ。じゃなきゃ思考停止ってやつだ、極端はいかん」

「悪いところを探すなんて、性格の悪いことじゃないかな」

「いいや、物事を大きく見ても、小さく見てもいかん。何もかも、それほど素晴らしくはないが、それほど酷くもないんだ」

「そもそも、そうそう、毎度見つかるかな」

「見つからんなんてことはない。長所は短所に、短所は長所に読みかえられるもんだ。状況に対して考えることをとにかくやめるな。

 ……長所と短所の大きさを比べちゃ、一番いかんぞ。大きさなんて見方でいくらでも変わる、本当だ」


 念押すごとに肩の手が熱く、深く握り込んだ。前後にふれた。熱感が喉もとに上がり来て、堪えかねるのを恐れて、声音をすぼめた。


「ふたつに」

「ふたつに、なに?」

「これからお前は自分のことを自分で決めなきゃいけない。全部独りだ。だが頼りかたも独りで決めるってだけだ、だから、独りになるなよ。どうやら頼もしいひとが居るみたいでよかった、頼らせてもらうといい」

「一方的なのはちょっと」

「当たり前だ。頼りかたもよく考えなきゃいかん。人に頼るだけ人に返せ、でなきゃお前がしっぺ返しを食う。リトレンを忘れるようなもんだ」

「上手く出来そうにないなあ」

「怖いか?」

「すごく怖い」

「そう心配要らん、世の中それほど優しくないが、それほど厳しくもない。人は人が好きだよ。

 それにしても、声をあげるのだけは、いつだって、自分でやるもんだな。それが出来ないやつはどうともしてやれん。みんな自分で手一杯で、気付いてやるほど暇はないのが普通なわけだ」

「ああ、それ、厳しいね」

「厳しいも何もどうしようもない」

「……そうだね」

「みっつに、お前の名前な」


 よく道を拓くようにロード、道理によく従うようにロード。知った限りのことを思い返して、木石・不徳者の物言いを思い出し、また冷静感がもやつかせた。


 けれど彼の腕が震えるので醒めた。

 この人はこんな笑顔を持っていたのかと、ロードは思った。背負い、抗し、願った彼の面立ちをまるで初めて見たかのごとく思った。最後が終わるのだと思った。


「もう一つ意味がある。どんな生き方でも行ったら道になるからと、まあ大丈夫だと、だからRoadだ。お前が大人になったとき伝えるよう、母さんと決めていたんだ」


 泣かなかった。






「えっ待って」

「いかがなさいましたか」

「ここに住むの? 山の上に?」

「……申し訳ございませんッ」

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