20. Start of their roads

 シャートウ事務局の地下、あの小麦色の少女・セイナが巣にしていた部屋で、ロードはようやっとベッドに身を任すことが出来た。傍らにはローナだけを置いて、彼女が調合した薬を服してからもう三時間経つ。


「今、大丈夫ですか?」

「ローナにそんな顔をされると困ってしまうな……大丈夫だよ」


 階段がぎぃぎぃ言う。上から降りてくるセイナだった。


「えーっと……その人、ロード・マスレイさんだっけ? どう?」

「はい。きっと治ります」

「そ。ベッド、好きなだけ使っていいから、はやくよくなってよ」


 彼女は彼について知らない。けれど血塗れのベッドを見て、生臭い部屋の匂いを嗅いで、彼女は嫌な顔一つしなかった。


「優しい子だね」

「はい、本当に」


 戻っていってすぐ、上から「狩人さんいらっしゃい」と祖母譲りであろう陽気な声が聞こえる。


 見回せば見回すだけ惨状とわかった。散らかしたままの本や昆虫標本で古書店の風合いを醸していたのが、今やところどころ赤黒い。彼らがロードを事務局に担ぎこんだ時、彼女は「医務室は別棟だから遠いよ」といって、自室に諸々の道具を引っ張ってきたりと世話を焼いたのだった。


「私、ああいう風に真っ直ぐになりたいです。心の中に、絶対正しいって思える何かが欲しいです……でもないんです」

「神は死んだ、か」

「先生、今のすっごくまずいですよ」

「比喩だよ、他意はないさ」


 ちょうど本棚に彼の目当てがあった。部屋を借りた上に蔵書まで読ませてもらう無礼は不可としながらも、視線は細糸で軽く引きつけられるようだった。


「ニーチェの引用なんて、辟易するかい?」

「大っ嫌いです」

「まあ、君はそうだよね」


 何かのついでにローナがしゃがむので、ロードは日頃のクセでその髪と右頬を撫でた。


 返ってくる表情のにこやかなこと、彼もそれを真似た。


「どうしたんですか?」

「ついね」

「猫じゃないんですから」


 髪をかき上げると、ローナはいっそう嬉しげにした。頬を撫でる手に軽くもたれて、目を閉じてしまい、一連の流れで眠ってしまいそうなあたりが正に猫らしい。けれど与えられた輪を愛しみ、その中で生きる、子犬のような子だとロードは思い出した。


「君はどうして僕に弟子入りしたかな」

「先生は私がいないと、だめだめだからです」

「はいはい……まったく、あと少しでも君が出来ない子だったら落としたのに」

「逆贔屓反対でーす」

「気を遣うんだよ、そういうの」


 撫でるのをやめようとするとローナは先読みでその手を捕まえて、頬にきゅうと押しつけた。それがあまりにもいじらしいので外套の中で抱きしめようと思ったものの、如何せん動けない。

 何より彼女を抱きしめるには、あまりにも服を汚しすぎた。


「……先生?」

「少し、眠い」

「そのまま起きないとか、本当に本当になしですよ」

「努力するよ」


 それきり頬にかかるロードの手が重くなった。

 放せばするりと抜け落ちて、もう彼の目は閉じている。呼吸は薄かった。


「……セイナさーんっ」

「はーい」


 再びドタドタ降りてくる。昨日までなら病人の近くで煩くする彼女に憤っただろうに、ローナはもうそんな想いになれなかった。また、ロードに薬の件を任された時の自分がどれだけ大騒ぎしたか、頭が痛いほど思い出した。


「そろそろ帰りますね。ありがとうございました」

「え、もういいの?」

「はい、あとは王都のお医者さんにお任せします。なのでその、なるべく早く帰りたくて……」

「あー、いいよ。自分の部屋くらい自分で掃除するから」

「ごめんなさいっ」

「いいのいいの。それと担架、上にあるから」

「はい、ありがとうございます」


 上からあの老婆の声がする。「セイナぁ、ちょっとこれ読んでぇ」と、老眼の苦労をしているらしい。セイナは返事をするや、また大急ぎで上がっていく。


 その時、上が騒がしくなった。


「ローナさん、運びますよ」

「あ、トウカ。今の何ですか?」

「来たらわかります」


 共にロードを運びつつ早々上がっていくと、もうアクラたちが待っていた。ルークとミレントはすでに担架を用意していて、二人がかりで乗せるとようやく一息付ける。

 それはそれとして、騒ぎの正体はセイナの鑑定だった。


「こりゃかなり古い文章だね。旧時代の遺産だったら、まあまあな値で売れるかも」

「本当? どうしようかなあ、記念にとっといてもいいんだけど」

「アールさんってばそういうとこだよ? 博物館にでも売っときなって。んで、『これ俺が発見したんだぜー』って、仲間連れてきて自慢すんの」

「はは、それが一番だね。セイナちゃんには敵わないや」


 彼女が鑑定していたのは、漢詩を書き殴った紙切れだった。


「行こう」


 ルークはくたびれた服の衣擦れのような、低い声で催促した。ただ催促と称するには切迫がなかった。


「あ、受付? あんた……アクラちゃんがリーダーだよね、はい五人分。ジムテン料5211エン、たしかに。で、あの担架に乗ってる……」

「ロード・マスレイ先生」

「そだそだ。そのロード・マスレイさんの分は、王都事務局から連絡来たから大丈夫」

「ありがとう、セイナちゃん」

「お疲れ。先生よくなるといいね」


 非常に無邪気な表情だった。


「あ、おばーちゃんっ! さっきの五人の許可証、入れるトコ間違ってたよ!

 独立した人は上から一番目、お弟子さんは上から三番目の戸棚!」

「あらあ、ごめんなさい」

「もー、混ぜたら罰金取られかねないよ!」


 アクラたちはテレポーターに乗り込みながら、振り返れなかった。

 もう嫌だった。


「ねえみんな、私」

「アクラ、ルーク」


 ミレントは誰も見ずにそう呼びかけた。

 みなすぐ注目した。


「俺はやっぱり、あの日の試験のこと、納得できない」

「ミレント君?」

「俺は一個試験を落としたんだ。結局師匠ンとこに弟子入りできたけど、取り返しのつかないことだ」

「ミレント、お前」

「だから、お前ら狩人やめるなよ。俺に返せないなら、一生かけて世間に返せ」


 畢竟、彼は二人に呪いをかけた。




 ロードは三日後、さっぱりと目を覚ました。


 それまでピクリとも動かないのでローナは大変な泣き騒ぎをして、リシオンとスピナが見舞いにやってくる時などはいっそうに酷かった。山桜を眺めては「もう散りますよ、先生は見ないんですか」と詩人のようなことを言って、愈々いけないなと皆案じた頃、スピナが淹れたレモンティーの香りにつられて目を覚ましたのである。第一声が「例の薬は遅効性のようだ、意外だな」と彼らしい。

 直後、スピナとローナが重なって飛び込むわ、リシオンが頭をかき回すわ、一枚絵のように幸福で凡庸で安楽な風景を描いた。


 サテ是を以て一端のとしたいが、この沈みゆくのをどうにかするために、トウカがあるとき呟いた不穏な言葉を書き残しておく。


「まあ、こんな楽しいのもそろそろ終わりかな」


 彼にはこれまでが、どうにも楽しかったらしい。 

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