第2章:Nihilismのススメ

01. やはり微睡みから始まる物語

 取り返しのつかないことがあって、それがどんなに大切なものでも受け入れ難くても、どうしようもない。悲しむしかなくて、何か乗り越える術があったりもしない。それが自分のせいで起こることもある。

 けど僕たちにはいつだって、抗うことが許されている。意味がなくても、辛くても、心が死んでしまわないために、抗っていい。


 そんな理屈がリフレインして、今日まで僕は強がっている。




「もう堪忍してやってくれ」


 低く抑えた声だった。

 乾固した土に布を敷き、五本柱にも布を張った、家と言い難い家では十分だった。そして、心臓を削るようにごりごり薬草を潰す摩擦音すら絶えて静かになった。


「オガル、いいのか」


 誰も答えなかった。


 当のオガルは、まず妻を見た。痩せこけた体で横になっている。木漏れ日のように射す光は、屋根擬きの布が夏の陽光を遮れずできたもので、彼女の目元にもまぶしく刺さっていた。村一番と評された白い肌はしみだらけになって、頬骨の影ができ、口がほ、と開いている。

 頭を上げ、妻をはさんで向かいに座る息子を見た。


「ロード、いいな」


 真面目とはいえ堅物でもない、まだ一五の息子だが、その時は「うん」ではなく「はい」と頷いた。はきはきしていると言ってもよかった。縦長の顔も萌葱色の瞳も、藍色の髪も細い体格も母親譲りで、そのすべてが生気に溢れている。

 オガルは瞼を握りしめるように閉じて、そのまま左にいる薬師の方は向かなかった。


「頼むセパル。もうあの薬はやめてくれ」


 また低く抑制された声で言った。


 暫くの沈黙を破って小気味よく、瓶蓋の締まる音がした。


「すまんな」

「いや、ありがとう」


 顔を上げると、ロードは妻の手を強く握っていた。


 その顔が三拍置いて細まった。末梢から失せていく体温を追いかけて手首を掴み、肩を掴み、両手で頬を挟む。

 しかしついに、彼はその姿で動かなくなった。


「……行ってくる」


 見届けて、何もなかったようにあらゆる準備を済ませ、家を後にした。




 まっすぐ進み、角を曲がってたった二〇メートル先の広場が視界に入った直後、動きを止め、すぐ近くのボロ屋の裏に身を隠した。彼は耳が良かった。


「せめて土下座の一つも……」

「それでは足りるまい。態度云々の話ではないだろう」

「いやねぇ、こんなお話」


 集合時間に遅れたりしない生真面目なオガルだったが、そこの彼らは相当話し込んだようだった。広場備え付けの時計は、彼が伝えられた時間の二五分前を示している。彼らが何を画策したのか、すぐ分かった。


 また、広場の時計は確か七分も遅れていたはずで、彼らは企んでみたがドジを踏んだという察しも付くというもの。


「失礼いたします」


 姿を現してみると、みなグルッと回って彼を見た。そして数人がチラと時計を見て、息を詰まらせた。平然といつもの位置に座るオガルを、誰一人視界の外にやれなかった。

 暫くみな力んで、オガル同様平静を装った。


「アリシアは、いかがですかな」


 一人口を開いた。河童のようにはげ、その周囲に生える髪も、長い髭も真っ白で、しかし眼力は若々しく、長老然とした長老だった。誰の様子も特に変わらなかったが、三秒先を恐れる圧迫感が満ち満ちた。丁度走馬灯のような圧縮だったろう。


 言葉から逃げるように、オガルは首を横に振った。


「そうかね」


 誰かが苦々しい口をして目を閉じ、縦に頭を三度振る。

 そうして話題が一つ消費され、またみな力んだ。やはりまた長老が口を開いた。


「単刀直入に、お願いしたいことが一つ」


 また誰の様子も変わらず、かつ圧迫感が巡った。オガルも今度こそ逃げ手はないと覚悟した。長老は居住まいを正し、数拍置き、両の手と額を地につけた。


「アルバにただ一人の若者。唯一の未来。歌の子、ロード・マスレイを供物に頂きたい」

「わかりました」


 返答ははやく、また誰も驚きを見せなかった。


「ただ一つ、私からもお願いを」

「ほう」

「くれぐれも、情に訴えるような説得は慎んでいただきたい」


 一人、老婆が泣き崩れた。みなますます力んだ。

 また、みな、オガルならばとわかっていたことでもある。ちぎれるような嗚咽を、一五人、固くなって聞き流した。


「あの子なら、言えば受け入れような」

「いえ、あの子は聡い子です」


 オガルの言葉を遮ったのは、足音と、急に向きを変える周囲の視線だった。彼もゆっくりそれに従い、後ろを向いた。その表情は驚きではなく呆れのようなものだった。


 その少年を、アリシアと見紛う者がいた。




 ぬちゃり。ぬちゃり。

 ぬちゃり。ぬちゃり。


 ぬるく厚い霧の中、裸足の少年は獣道を行く。彼の瞳だけ、厳格と軽い陶酔で、高らかな色を示していた。


――なんて美しい人生だろう!


 彼を占めていたのはこの文言だった。


 神レシーランの住まうその場所、マルカ湖まで一人歩いて行く体力は、恐らくロード以外の誰にもなかっただろう。まして裸足に青白い法衣を纏い、寒さをこらえて行くならなおさらだ。たった一人、ロード・マスレイにしかあの村を救えない。


「神レシーランよ。水の女神よ」


 長い干ばつで干上がった村。しばしば食事の時間に出かけ、後で済ますと言っては結局水で済ませていた両親。静かに去った母。泣かないまま家を後にした父。全てを理解して村会議に割り込んだ自分自身。この興奮を抱くことができる自分自身。


 これほど美しい人生はない。それは恐怖にすら勝る。


「どうか我が村を、隣人を、救いたまえ」


 切れる息、冷えいった身をさらに冷やす汗、揺れる意識。降りかかる試練はどれも興奮を高め、ふらつきながらも心の中では闊歩していた。

 興奮は万能感に昇華していく。此岸を去る切なさすら混ぜこぜに、彼という存在が肥大化していく。


 はぁっと霧が晴れた。

 薄灰色の岩盤を抉って、湖が佇んでいた。


「……神レシーランよ」


 泳ぐ者、根を張る者、何者もいない湖。なにもかも深く澄んでいた。形容しがたい美しさというより、形容しうる要素がすべて絞り落とされていた。


 覗き込んだ。その先に底はない。どれだけ澄んでいても見えはしない。心臓が抑え込まれるように縮んだ。


「神レシーランよ」


 興奮と切なさが高め合い、震える手で、ガタガタのカミソリを取り出した。

 まずは左手の甲を裂いた。


「っ……!」


 ついにやってやった。実行してやった。


 続いてしゃがみ、左足首をざぱり。さらに右足首をざぱりと裂く。そして持ち替え、右手の甲を裂く。鼓動ははっきり聞こえるほど高まり、身を冷やす汗はさらに吹き出す。


「……さよなら、父さん、母さん」


 彼はまた美しい言葉を発した。最期に不似合いだったのは、ぼかーん、と広がる水音だけだっただろう。



 と、彼はそう思い込んでいた。最期は遠かった。



「ンンッ!!」



 燃える! 痛い! 死ぬ!


 アアッ! 裂ける!! 裂ける!!



 少年は溺死を知った。胸が弾ける苦悶で思考を擦り潰される。意思にかかわらず痙攣し、そんな苦しみから一瞬逃げることさえままならない。村のため、命惜しからずの決意は、先ほど切った手足の、些末な痛みとともに忘れた。そしてついに悟性すらなくなった……しかし、しばらくしてすべておさまった。とうとう死ぬのだ。完全なる静止は最期の時にありがたい。

 嗚呼、脳が溶けてゆく。それでもなお、何故か思考ができた。


 ふざけるな。馬鹿だろこんなの。ふざけるなよクソ。……頼むから、頼むから助けてくれ。痛いぃ……うぁぁぁぁ……。


 これが、誰よりも村を思ったという優しい優しい少年の最期であった。



『あなたは?』



 ところがその一声で目が醒めた。魂が抜ける瞬間だった。とんでゆくシャボン玉のようにぽうんっと身体を捨て、少年は在るだけのものになった。


――は


 苦しみが霧散し思わず脱力した、つもりだったがその感覚はなかった。何もかも曖昧になってしまう。かろうじて思考できるが、まるで赤ん坊のように自分の使い方がわからない。


『ねぇ、あなたは誰なの?』






「――あ」


 すべて彼、ロード・マスレイの夢だった。


「まだ……見るのか……」


 意識が浮き上がるのに従って、視界の歪みをより味わうこととなる。二日酔いだった。

 フロートモスの一件に収拾をつけたあと、ロードの快復を祝し山の家にて宴席が設けられたが、主役の彼が真っ先に倒れてしまったのだから詮方ない。


 視界が少しずつボケを補正していく。


「……レシー?」


 彼の視線の先に、絶世の美少女がいた。


「先生、もう9時ですよ。そろそろ起きて下さい」

「なんてことだ……」

「先生?」


 ぼやけた姿でも彼にはわかる。彼がかつて愛した少女は、こんな黒髪をして、こんな水色の瞳をして、こんな白磁の肌をして、永遠に消えぬ絶妙の美を象徴していたのだ。


 かつて自分の失態で喪ってしまった少女がそこにいる、彼に理由を問うような安穏はなく、奇跡を奇跡と感動する理性すらなく、こみあげる名のない衝撃に身を任せて上体を引き上げた。


「レシー、ああ、レシー……!」

「えわちょ、わっ」


 華奢な彼女を強すぎるくらいの力で抱きしめた。


「……あの、先生」


 視界が明瞭になったのは、それから暫く。


「私たち、こういう関係でしたっけ?」

「おや」

「えっと、とりあえず一発入れときますね」


 朝の書斎で撃音があがった。

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