転 弐
「なんだ、この音は?」
洞窟の中を進む那由汰が呟きました。私も耳をすませます。微かに聞き慣れた音が聞こえます。
「これは……木を彫る音だ」
私の答えが聞こえたのかは分かりません。那由汰は黙っていました。
洞窟は深くはありませんでした。
松明の灯りの向こうに、長髪を振り乱して首を動かす男影が伸びています。
影の元に目をやると、暗がりの中で両腕のない男が口にのみを咥えて、一心不乱に木を彫っているのが見えました。
男の周りにはそこかしこに奇っ怪なかたちをした木像が転がっています。
「……せ、先生?」
私は影に呼びかけるともなく呟きました。
私の知っている穏やかな先生の面影はありません。
先生は私に気づく様子もなく、鬼気迫る勢いで彫り続けています。
「先生!……先生!!!」
先生に駆け寄ろうとした私を那由汰が制止しします。
「真人、よせ!もはや
那由汰の大きな声は聞こえたのか、先生がこちらにゆっくりと向き直りました。
松明の橙色の灯りに照らし出されたその顔は
「カカカカカカカ」
先生は頬骨の奥に落ち窪んだ両の目を見開き、
――カタン、カラカラ
先生の唇から落ちたのみが音を立てて地面に転がりました。
口を開けて嗤う先生は異様でした。
異様だと感じた訳はすぐに分かりました。
その口には歯が一本もないのです。
のみを咥え木を彫り続けるうちに、歯が全部砕けてしまったのでございましょう。
「カカカカカカカカカカカカカカ」
嗤い続ける先生の歯のない口から、真っ黒な血がどろどろと滴り落ちます。
血――いえ、黒いどろどろとした液体が口元からのみならず、目から、鼻から流れ出しました。
「我ガ彫リ出シタ像ヲ壊シタハ
地の底から響くような声でした。
先生がその足元にあった木像をこちらに蹴って寄越しました。その像は先程那由汰が殺した三つ目の狗の像です。像は首と胴が切断されていました。
先生は――もはや先生と呼んでいいのか分からないソレは、妖かしを彫って霊を与えていたのでございます。先生が仏様を彫って現に極楽浄土を創り出したように。
「……だとしたら?」
隣に立つ那由汰が太刀を構えて答えます。
先生は黒い眼窩をさらに開き、
「カカカカカカカカカカカカカカ……ひひひひひひひひひ……ひひひひひ……」
と再び嗤い出しました。
「ナラバ、
狂ったような高い嗤い声に混じって、低い声が地を鳴らします。
先生の身体がビクンと震え、後ろへ仰け反りました。
両肩から五本ずつ蜘蛛の脚のようなものが生えてきます。蜘蛛の脚は横に目一杯に広がると、先端の爪だけ残して、ムクムク膨れ上がり、黒々とした巨大な鬼の手へと
「業火二
鬼の手から蒼い炎が上がり、那由汰に掴みかかってきました。
那由汰は私を突き飛ばし、炎を太刀で薙ぎ払いながら、先生に向かって一直線に突進していきました。
しかし――
次の瞬間、先生の足元に転がった異形の像が具現化し、那由汰の行く手を阻みます。
次から次へと現れる異形を斬っては捨てる。
このままでは那由汰の体力がなくなってしまうでしょう。
「カカカカカカカカカ……ひひひ……ひひ……ひひひひひ」
愉快そうに奇声を上げるごとに、先生の口からはゴボリゴボリと黒い液体が流れ続けています。
「踊レ、踊レ、踊リヲ止ムレバ死ノウゾ」
先生の身体から生えた鬼の手からは炎が四方に放たれます。
那由汰はそれを舞うように避けながら、太刀を振るっていました。
――ま……ひ、と。……ま……ひと……
その様を呆然と見守ることしかできなかった私の脳に、聞き慣れた、落ち着きのある静かな声が響きます。
それは確かに先生の声でした。
「私を、殺しておくれ……」
その声に我に返ると、私の足元に、先程先生の口から転がり落ちたのみが落ちていることに気づきました。
私は何も考えていませんでした。
もはや、恐怖は感じなかった。
それを拾うと、先生目掛けて走り出しました。
先生が黒い血の流れる目を、走り出した私の方に向けてきました。
「ギ……ギギギギギギギギ……」
歯ぎしりするような不快な音がこだまします。
すると、那由汰に向かっていた異形の群れが一斉に私に襲いかかってきたのです。
「真人!こっちだ!!!」
那由汰の太刀が、私の行く手を切り開いていきます。
「オノレェェェェェェェェェェ!人間!!!」
鬼の手がメキメキと音を立てさらに大きくなりました。
巨大な爪を伸ばして走る私を捕まえに来る。
しかし、那由汰の太刀の方が早い。
鬼の左肘から下が切断され、宙を舞います。
「アアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!」
先生は絶叫しました。
臣様に両腕を切断された時もこのような叫びを上げたのでしょうか。
そして――
私は、先生の心臓に、のみを思い切り突き立てたのです。
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