第9話 魔王への覚醒

 ベルクト伯爵の屋敷の中は違和感しかない。一体どんな所がおかしいのかと問われれば、僕は全てが異常だと答えざる終えなかっただろう。


 廊下は石造りでほとんど灯りが灯されておらず、あまりにも暗い。しかも途中で部屋を覗けば、床に敷かれた絨毯、扉やシャングリラ、中にあるものは全て黒または紫色に統一されている。趣味が悪いどころではない。


 しかしアンジェリカやレナ、セフィアは特に気にしていない。僕達を案内してくれているメイドもとりすました顔つきをしている。まるで僕だけがおかしくなったような錯覚に陥るほど。


 何度も階段を登り続け、辿り着いたそこだけは黒と紫以外の色をしていた。血で染めたような深紅の扉。開いた先は、まるで国王の謁見の間そのものだった。


「それでは、ここでしばらくお待ちくださいませ。ノア様」

「あ、ああ」


 メイドの一人はうやうやしく礼をしてその場を去っていく。レナが楽しそうに広い部屋の中を走り回り、セフィアと追いかけっこを画策しているようだ。


「わーい! セフィアお姉ちゃん、レナを捕まえてー」

「もう。小さな子供みたいにはしゃいで」


 アンジェリカはその姿に呆れている様子だった。しかしすぐに整った顔に微笑を浮かべると、僕にキスできそうなほど距離を縮めてきた。


「うふふふ。どうなさったの。先程から随分と落ち着きがないですわね」

「こんなに大きな屋敷にいるんだから、落ち着かないのも当然だろ。ベルクト伯爵はいつ来るのかな」


 素朴な疑問を口にしていると、走り回っていたレナが足をぴたりと足を止めた。首を傾げているようだ。


「え、ベルクト伯爵ってだーれ?」

「あはは。こらこらレナ、いくらなんでも失礼じゃないか。この館の主を忘れてしまうなんて」


 僕は笑い飛ばそうとしたが、アンジェリカとセフィアもまた不思議そうな顔でこちらを見つめている。


「ベルクト伯爵などというお名前は、聴いたことがありませんわ。それにノア様。この館は元々、私達のものでしょう」

「そうですご主人様。お疲れになってしまったのですか」


 ——え。ちょっと待ってくれ。僕は背筋に寒気が走っていた。


「な、何いってんだアンジェリカ。お前が最初にベルクト伯爵の館に用があると言って、ここまで来たんじゃないか。それに、僕達の屋敷だって?」

「まあ。私がそのような与迷いごとを? 気のせいでしょう。ノア様、ご自分の住まいをお忘れになられたのですか」


 アンジェリカの瞳はいつもと違っている。青い瞳の周囲には、黒く怪しいモヤのような何かが溢れ、そのまま吸い込まれそうな錯覚に陥る。


 自分がなにか大事なことを忘れているような気がした。気がつけば左手に、セフィアの指が絡み付いている。


「ご主人様。ここは元々あなた様の館。あなたは主であり王だったのです。私達——魔族の」

「ま、ま……」


 魔族だって? いつから僕は魔族達の王になったというのだろう。しかし奇妙だ。彼女の言葉は頭の中にすっと入ってきて、奇妙な余韻を残した。


 続いてアンジェリカが耳元で息を吹きかけてくる。甘美な衝撃で、僕は彼女との刺激的な夜を思いだしていた。


「人間どもは愚かな者達ばかりです。私達は彼らから殺しや略奪といった被害を受けないよう、魔族であることをひた隠しにしてまいりましたの。彼らは隙あらば騙し、奪い、殺そうとする連中です。そのような腐りきった者どもに、高貴なノア様を理解できないことは当然でしょう」


 セフィアが背中にその小さな顔と、膨らんだ柔らかいものを押し当ててくる。


「ご主人様は何も悪くありません。全て悪いのは人間。彼らは裁かれるべきなのですよ」


 レナが僕の胸に顔を埋めてくる。


「可哀想なお兄ちゃん。でももう安心だよ。レナ達がついているんだからね!」


 一体みんなどうしてしまったのだ。僕は朦朧とする意識の中、それでも必死に考えを巡らせている。しばらくして、彼女達の話が正しいことに気がつき始めた。


 そうだ。僕のような魔術師を追放したリック達はよほど無能だ。僕を邪魔者扱いしていた故郷の連中。僕を躊躇いもなく振り、なんの取り柄もない男に惚れて結婚した馬鹿な女。僕が恥を忍んで金を借りようとしたのに一蹴した元友人達。少しのツケで目くじらを立てる酒場のマスター……それから、それから。


 愚かな連中の腐った面が無限に頭に浮かんでくる。あいつらは揃いも揃って、どうしようもないほど愚かでしかない。心の奥ではそのことに気がついていたが、優しい僕は深く考えないようにしていたのだ。我ながらなんて甘く慈悲深い男だったのだろう。


 気づけば謁見の間に、先程のメイド達が集まっている。扉の向こうからも美女、美女、美女達がやってくる。


「あははは! お気づきになったのですねノア様。ご自身の偉大さに、そのお力の素晴らしさに」


 アンジェリカの笑い声が心の奥に染みてくる。ああ、そうだ。僕を理解してくれるのは愚かな人間ではなく、崇高な魔族達だった。


「さあ、最強であるあなた様のお力を、人間どもに分からせてやりましょう。これからは魔王として、私達を導いてくださいませ」

「僕が……魔王……そうだ。そうだよな。人間など徹底的に排除するべきだったんだ。いいだろう。この僕が、お前達を導いてやる」


 レナはぴょんぴょん跳ねたと思うと、急に手を引っ張ってくる。


「お兄ちゃんカッコいいー! ねーえ……この奥にとっても大きなベッドがあるよ。行こっ」

「あらあら、抜け駆けなんてダメよレナ。私も一緒にしてくださいね」

「ご主人様、どうか私もお連れください!」


 やれやれ、僕としてはそこまでの気持ちではないのだが致し方ない。最強の力を世界に知らしめる前に、まずは英気を養うとしよう。


 その夜のことは決して忘れられない。彼女達だけではなく、メイドから町にいたという娘から、色々な者達が僕に押し寄せてきた。今まで経験したこともないほど甘美であり、全てを忘れさせてくれるほど素晴らしい一夜だった。


 しかし、僕はまだ満たされてはいない。あの娘を、ルーのことがどうしても忘れられなかった。


 だが、彼女に再会するのもそう遠くはないだろう。

 いつの間にやらアンジェリカ達は、僕の為に兵隊を集めていたようだ。そいつらが世界中に正義の鉄槌を下すべく動き出す。だが、あの娘だけは殺さずに連れてくるよう指示してある。


 今から再会が楽しみでならない。

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