第7話 現在
佐藤さんは「二次会も来るでしょ。じゃあまた後で」と言ってテーブルに戻っていった。
私は
時折オレンジジュースを口に含み、会場の入り口を見ながら、古條さんが現れるのを待った。何度か女性が入ってきたが、古條さんの
もう一度受付に行って訊いてみようか。
飲み終えたコップを会場の入り口近くの返却トレーに置いて、入り口を抜けようとしたとき、一人の女性が会場に入ってきた。
黒のワンピースという同窓会に参加するには少しばかり暗めの服装をした女性だった。横顔を見て、私は思わず息をのんだ。五十年前と変わらない、と言ったら言い過ぎだろうか。そう感じてしまうほどに、彼女は小学生の頃の面影を色濃く残していた。
「……古條、さん」
彼女はこちらに顔を向けると、「ごめんなさい。同窓会に参加するのは今回が初めてで、お前を訊いてもいいかしら?」と少し頭を下げた。
名乗ると、「思い出したわ。さくちゃんって呼ばれていたわよね」とくすりと笑った。彼女が笑うところを見たのはこれが初めてかもしれないと思った。
こうして実際に面と向かうと、何と話を切り出したらいいのか分からなくなる。小学六年生の私もこうやって迷って、結局のところ何も訊けなかったのだ。
それから五十年。
拙い人生ではあったけれど、色々なことを経験して、そのことがますます私を臆病にしていた。
私が何かを言いたそうにしていることが伝わったのだろう。
「場所を変えましょうか」と古條さんは言って、二人で受付を抜けて外に出た。受付の前を通る際に樫原さんが「どこに行くの?」と声を掛けてきたので、「ちょっと外の空気を吸いに」と答えておいた。
秋の
「私に話したいことがあるのでしょ」
古條さんは髪に手を添えて、夜空を見上げている。
その視線の先に浮かぶ星々は、家の庭から眺める星よりも遠くに見えた。
「小学六年生のときの遠足で、どうしてあの子を見捨てたの」
ここは老いた町。
背後に建つ町一番のホールは古めかしく、もはや町に住んでいるのは年老いた人間ばかり。当時私の通っていた頃は一学年四クラスあった小学校も、今ではたった一クラスだけだと言う。
日に日に老いてゆくこの町とともに、私は最期のときを迎えるのだろう。五十年間胸に秘めていた問いを墓場まで持っていくことも頭をよぎった。五十年も前のことを今更掘り返して、一体何になるというのか。だけど、たとえ客観的に見れば時効だったとしても、私の心からあの日の出来事が失われることはなかった。
五十年もの間生き続けてきた問いを、私はこのまま生殺しにしたくなかった。
「そうね、やっぱり見られていたのね」
古條さんに驚いた様子はなかった。そのことに私の方が驚いたくらいだ。
「え、やっぱりって?」
「あなた、あの遠足の後からやけに私の方ばかり見ていたでしょ。もちろん他のクラスメイトも私のことを見ていたけれど、あなただけ数が圧倒的に多かったもの。それに、他の子の視線はペアの子が亡くなって辛いだろうなとか、私のことを気遣うものだったのに、あなたのは違った。何か訊きたいことがあって、だけど何て訊いたらいいのか分からないって感じのものだった。確信までは持てなかったけれど、本当に見られていたのね。五十年前の私を
古條さんは黒のショルダーポーチから煙草の箱を取り出した。
「吸う?」
首を横に振ると、「そう。私は失礼させてもらうわね」と古條さんは言って煙草を一本くわえ、ライターで火をつけた。
「あなた、見捨てたと言ったわね。私があの子を見捨てたって」
古條さんはこちらを
「それは間違い。少なくとも私は、彼女を救ったのだと思っている。……いや、信じていると言った方が正しいわね」
それから彼女は煙草を三度吸って吐いた。
「今から話すのは、そうだったかもしれない物語。と言うのも、この歳になると段々と記憶が曖昧になってくるものでしょ。それに記憶というものは時間と共に姿かたちを変えていくもの。だから、あくまでも可能性の物語だと思って聞いてほしいの。実際に起きた物語かもしれないし、起きなかった物語かもしれない。この話を信じるか信じないかは、あなたに委ねられているということ。そして、一つだけ約束してほしい。ここで聞いた話を誰にも語らないと。あなたが最期まで持っていくと」
古條さんは今日一番の大きな煙を吐き出した。それもすぐさま夜風に流されて消えてしまう。
私が頷くのを見て、彼女は「ありがとう」と言った。
「あの日、私とあの子はペアになって山菜取りに向かった。それはみんなが知っていることね。そしてここからが私とあの子、そして部分的にあなたが目撃して知っていることになるわ。――山菜取りに向かった私たちは、山道に沿って色んな山菜を集めていた。それまで互いにあまりしゃべったことがなくて、始めこそ会話はぎこちなかったけれど、一緒に山菜を採取しているうちに仲良くなって、気づけば気兼ねなく話せるようになっていたわ。だけど、突然あの子が私に告白をしてきたの。私は始め冗談だと思って、笑って受け流そうとしたのだけれど、あの子は本気だった。あの子は女の子が好きなのと言った。そして、一年生の頃からずっと私のことが好きだった、自分が女の子が好きだってことはずっと秘密にしていたけれど、どうしても卒業前に想いを伝えたかったとも言っていたわ。同性のことを好きになる人がいることを、私も知識としては知っていた。だけど、実際に同性から好意を向けられると何と答えたらいいのか分からなかった」
当時はまだLGBTという言葉が使われ始めた頃で、社会的にそういう人々を受け入れようとする姿勢はあったけれど、完全に受け入れることはできていなかった。だからそれらの人々のなかには自らの性癖をオープンにしない人も少なくなかったのだ。
「私は逃げ出した。あの子は、待って、と言いながら後を追いかけてきた。最近になって、私はあのとき何から逃げていたのだろうって思うことがある。友達関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖から逃げ出した? あの子の真剣な気持ちに応えられない未熟な自分と向き合うのが恥ずかしくて逃げだした? 五十年経った今でもよく分からないの」
そう言うと、古條さんは激しく
「……大丈夫よ。ときどきこうして体を痛めつけてやらないと、生きている気がしなくて」
咳が治まると、彼女は再び煙草をくわえ、話を続けた。
「よく分からないままに逃げ出した私は、途中で何かに足を取られて、気づけば眼前に
古條さんは吸っていた煙草を地面に落とすと、パンプスの先で踏みつぶして火を消した。
「死人に口なし。私はあの子と途中ではぐれたことにした。そうすればどうして森に入ったのか、その理由を知るのはあの子だけということになり、警察に追及されることもなくなる。
あの子が本当に救われたのか。それは誰にも分からない。
古條さんの自己満足にすぎないのかもしれない。
だけど、あのとき私だって何もできなかった。
だから、同罪。
私たちはこれから死ぬまで、あの子とともに生きていく。
――それは間違いなかった。
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