第5話
「おはようございます」
俺は寝ぼけ眼でマモの顔を見た。俺は起きるたびに必ずマモの顔を見てから一日が始まっている。俺は身体を起こして、ため息をついた。
「どうしたのですか?」
「いや、純のことどうしようかなって」
「悩んでいるようですね」
「キーパーソンだからな」
純が思いっきり明るく笑うところを、まだ一度も見ていない気がする。
「……お忘れではないですよね?」
「何が?」
「これは過去をやり直しているのではなく、あくまで振り返っているのだということです」
「わかってるよ」
「どうしようと、済んでしまったことはもう変わりません。あなたが死ぬという事実も」
マモは淡々と言った。
「……別に生き返られるなんて考えちゃいないよ。もう一度死ぬ体験をするのは勘弁してほしいけど」
俺がそう言うと、マモはフッと笑った。
「そうですか。では、今日の予定を確認してみて下さい」
「今日?」
俺はとっさにカレンダーを見た。
「カレンダーは変わってないな」
シフト表とスマホの予定表を確認する。
「家飲みの日から二週間経っているのか。今日は仕事が遅番で……ん?」
予定表には、『純と飲み』と記してあった。
「また純と会えるのか!」
マモに視線を向けると、彼は頷いた。
「もう一度、純の話を聞かないとな」
「話を聞いてどうするんです?」
「わかんね。家飲みの時の感じだと、仕事に関する悩みがあるような気がするけど……。大学のこともちょっと気になったし。高校時代は、純が俺の話を聞いてくれて後押ししてくれたから、俺もあいつの手助けが出来ないかと思って」
「なにも変わらないのに?」
確かにそうかもしれない。
「でも、今、俺に出来ることってそれくらいだし。純に話す気がなかったとしても、一緒に飲みに行くことであいつが少しでも気が楽に……ストレス発散にでもなればいいかなって思うし」
マモはなにも言わず、じっと俺を見てくる。
「何だよ」
「いえ……。お話、聞けるといいですね」
「そうだな。……とりあえず、朝飯食うか」
俺は仕事を終えて職場を出ると、小雨が降っていた。天気予報で確認していたこともあり、持っていた折り畳み傘を差して駅近くの串焼き専門の店に向かった。店の暖簾をくぐると、奥の席に純が座っていた。俺が近付くと声を掛けるより先に、純が俺に気付いた。
「お疲れさま」
「お疲れ。今日は俺の方が遅くなったな」
「俺も来たばかりだから、そんな待ってないよ」
俺は上着を脱いで、壁に掛かっているハンガーに掛けた。
「もう注文した?」
純は頷いた。
「じゃあ、俺も頼もうかな」
メニューを開いていくつか決めると、店員を呼ぶ。注文を終えて店員が去ると、純はスマホを取り出した。
「最近、ゲームを始めたんだ」
「珍しいな。純がやるなんて」
「そうかな?」
「やっているって話、今まで聞いたことないから」
「今、流行っているやつをやってみているんだ」
俺にスマホの画面を見せてくる。たしかに今、コマーシャルで有名になっているゲームだった。
「学生の時の友達とは会わないのか?」
「今、弘樹と会っているけど」
「いやいや、俺以外でよ。高校の時とか」
店員が俺と純の飲み物とねぎまやつくねなどの串の盛り合わせ、サラダなどを持ってきた。今日も電車だから、飲み物はやっぱりビールだ。
「会っていたこともあったけど、今はないな。なかなか会えるタイミングがなくて」
もしかして、今は俺ぐらいしか会える奴がいないんだろうか。
「仕事の方はどう?」
「頑張っているよ」
「職場にはどういう人がいるんだ?」
俺がそう訊くと、純は答える前にビールを飲んだ。
「どうって……。店長と社員が一人、あとはパートと派遣、学生のバイトがそれぞれいる。パートはほとんど主婦で、男は店長と社員、俺とバイトの四人。それ以外は女性だよ」
「そうか。俺の方はさ、最近は行く機会ないんだけど、純は行ってないのか? 職場の人と飲みに。店長とかと」
「ないよ。……弘樹の方は仕事どうなの?」
「ん? まぁ、いつも通りだよ。夕方が一番混んで忙しい時間だね」
俺はつくねの串をつかみ、食べた。弘樹の顔は赤くなっている。
「へぇ。でも、弘樹のところは楽しそうだね」
「え? そうか? スーパーの青果だぞ?」
「弘樹は職場の人と飲みに行っていたこともあるし、職場の人達が良い人だと自然と楽しくなるでしょう」
純の声音には、皮肉が混じっているように聞こえた。俺は気付かないフリをした。
「まぁ、そうだけど」
「何か不満でもあるの?」
「う~ん、特には。新人に教えるのが大変っていうのはあるけどな」
「……その新人の子はさ、覚えようとしてもなかなか覚えられてないだけじゃないの? 意欲はあるんだよ、ちゃんと」
「うん、そうだな」
純は通りがかった店員にビールを追加注文し、ビールジョッキをじっと見て呟いた。
「頑張ってやろうとしても、遅かったり要領が悪かったりして失敗することだってあるんだよ。でも、周りは早くこなせる奴ばかりだから、使えない奴だって周りは噂したりする。名前を言わなきゃわからないだろうって平気で……」
「純?」
「そういうのがあるから仕事が長続きしないんだ。やりたいこと諦めて、就活もうまくいかなくて、結局就いた仕事は社員でさえない……。他の友達は営業していたり、店長になっていたりしているのに」
純は酔っているようだった。俺は話題を変えた。
「そういえば、純は高校生の頃、軽音部でギターやってただろ? まだ音楽やってるのか?」
「そんな暇ない」
純は間髪入れずに冷たく言った。何でそんな言い方をするのかと、俺は面食らった。普段の純からは考えられず、やはり酒のせいかと思った。仕方ないので、これ以上は掘り下げずに話の方向を変える。
「純の親は元気にしているのか? この間、お母さんが体調崩したって言っていたけど?」
店員がビールを運んでくる。純は俺の質問に答えず、それを一気に半分まで飲む。
「おい、そんなに……」
「弘樹の親は元気?」
「え? あぁ、うん」
「そうか、元気か……」
「お母さん、まだ体調悪いのか?」
純はぼそっと呟いた。
「もう動けない」
「えっ?」
「母さんは入院している。脳の障害で身体の右半分が動かないんだよ」
俺は驚いて言葉が出なかった。まさかそんなに重い症状だとは思わなかった。純の言ったように、音楽なんてやっている場合じゃないだろう。無神経なことを訊いてしまった。
純は俺を一瞥する。
「いいよな、弘樹は」
小さく呟いた後、純はうつむいた。
「……お母さんは脳の病気ってことか?」
「違う」
それから純はなにも言わなかった。あまり触れたくないことかと考えていると、純の頭がコクリと傾いた。どうやら眠っているらしい。俺は純の肩をゆすった。
「ここで寝るなよ」
純は俺の声に反応して、目を覚ました。
「あぁ……。ごめん。なんかこの間もこんな感じだったな。ちょっとトイレ」
純は席を立って、トイレに向かった。顔は赤いが、表情はやはり暗かった。俺は純と入れ替わりでトイレを済ませた。
俺が席に戻り、上着を着て支払いを済ませた後、純と店を出た。雨は止んでいたが、風が強い。
「また飲みに行こう。俺でよければ愚痴聞くし」
純はコクリと頷いた。
「お母さんのこと大変だと思うけど、何かあれば俺も手助けするよ。仕事の方はさ、最初はそんなもんだって。色々言われるのも期待してくれているってことだと思うし、気にするなよ」
純は何か言いたげに俺を見たが、口をつぐんだ。けれど俺から視線を逸らしてボソッと言う。
「そんなんじゃない。簡単に言うなよ。……じゃあな」
純は俺に背を向けて駅へ歩いていく。
「何か言ってあげなくていいのですか?」
マモが言った。でも俺は睨んできた純の目に驚いてなにも言えなかった。その目を前にも見たからだ。言うべき言葉も見つからなかった。
俺はいつもと変わらない朝を迎えた。しかし天気は良かったが、気分は晴れなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「元気がありませんね」
純の顔が脳裏をよぎる。
「純のことが気になってさ。気に障ること言ったかなって」
「そうかもしれませんね。自分ではそのつもりがなくても、知らない間に相手を傷つけていることはよくあるものです」
「うん……。今度会った時は無理にアドバイスするより、とことん愚痴を聞いてやったほうがいいかもな」
俺は伸びをして、スマホを見た。
「あれ? また日にちが……」
「えぇ。田所純と飲みに行ってから三日経っています」
俺は予定表を確認したが、なにもなかった。ラインでも、会う約束は交わしていないようだった。
「今日は純と会わないのか?」
「はい。でも、仕事はありますよ」
シフト表を見ると、早番になっていた。すぐに時計に目を移す。
「やべっ! 遅刻しちまうじゃん!」
俺は急いで支度を始めた。朝飯を抜き、最低限の身支度を済ませて家を出る。しかし、バイクにエンジンをかけようと歩きながら上着の右ポケットに手を入れたが、驚きのあまり足を止めた。
「えっ、ウソ!?」
上着の左ポケットや内ポケットも探ったが、鍵は見つからなかった。
「やばい、バイクの鍵がない! いつも右ポケットに入れっぱなしなのに」
「これでは使えませんね。どうします? 時間がありませんよ」
確かに、探している時間はなかった。右ポケット以外に、鍵の在処の見当はつかない。
「バスを使うしかない。スマホカバーにICカード入ってるし、遅刻確定だけど今はそれで職場に向かうしかない」
早めにバスが来てくれることを祈りつつ、俺はバス停まで走る。そこには先に二人待っている人がいた。時刻表を見ると、もうすぐバスが来るようだった。一番後ろに並んで待っていたが、気付けばマモがいなくなっていた。
「あれ?」
どこに行ったのかと思った時、後ろの方からブーンという音が聞こえた。振り返ると、シルバーの車が勢いよくこっちに向かってくるのがわかった。
「えっ?」
その瞬間、目の前が真っ白になった。
俺は書庫のテーブル席に座っていた。
「おかえりなさい」
マモが俺の隣にいた。
「……俺、あの車のせいで死んだのか?」
「そうです。居眠り運転の事故に巻き込まれて、あなたは亡くなったのです」
「そうだったのか……。結局、純とはあのまま別れたんだな」
マモは頷いた。俺はため息をついた。
「鍵をなくしてなきゃ、死なずにすんだのかな?」
マモは俺の質問に答えず、目の前の開いた本のページをめくった。
「もう一つ見ていただきたいものがあります」
「まだあるの? 俺、死んだじゃん」
「はい。ですが、次が最後です」
マモは手の平で本を指し示す。俺は本を手に取って覗き込んだ。
-続-
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