カフラマーン芸術家組合のすぐそばにある広場は、いくつもの花壇と池、広場の中を流れる小川などがあり、休日は人々が散歩をしたり、子供たちを遊ばせている。

 ここでは半年に一度、春と秋の二回だけ組合の主催で展覧会が開かれる。

 ディララはこの展覧会に自分の作品を出したことはないが、シファーア商会が出店しているので覗いたことはある。

 シファーア商会は、会場で自宅にある美術品の買い取りを希望する人々が持ち込む物を査定している。わざわざ店へ足を運ぶのは億劫だが、野外の会場であれば気軽に美術品を持ち込めるという人が一定数はいるのだ。

 フィクレトの画廊では、古い絵画は扱っていない。主にディララのような若い画家の作品を集めて展示している。

 シファーア商会はワミードにいくつもの店を構えているが、買い取った美術品を販売する店はフィクレトの父が、彫刻や陶芸などはフィクレトの兄の店が扱っている。

 フィクレトが自分の画廊を持つようになったのは、ディララの作品を自分で販売したいと考えるようになったからだが、彼の画廊には十代や二十代の若い作家がよく売り込みにやってくるそうだ。それというのも『ディララ・シファーアという新たな作家を見つけ出した若き目利き』という評判のおかげらしい。


「相変わらず、大盛況ね」


 馬車から下りたディララは、大勢の人が行き交う広場の光景に圧倒された。

 芸術品を愛する人々の熱気が会場に溢れており、その雰囲気で目眩がしそうだったのだ。

 ほんのりと温かい陽射しが降り注ぐ公園には、新緑の草木の香りと土の臭い、そして画家たちの作品の絵の具の匂いがする。


「迷子にならないように気をつけて」


 フィクレトはディララの手を握って注意する。


「さすがに、この歳で迷子になることはないと思うわ」


 唇をとがらせて拗ねた口調でディララは反論したが、フィクレトは「それはどうかな?」と笑うばかりだ。

 確かに、会場は人が多く、場所によっては人々がいしている。


「父の店は噴水の近くだと聞いているから、もし僕とはぐれたら父の店に行くこと。いいね」

「はぁい」


 さきほど十年前の迷子になったときの思い出話をしたせいか、フィクレトはまたディララが迷子になるのではないかと心配しているようだ。


(さすがにそんな子供でも世間知らずでもない! ……はず)


 ディララが引きこもり生活をするようになったのは結婚後だ。

 それまでは普通に生活をしていた、と彼女は思っている。

 ナムークが聞いたら「は? 姉さんの普通ってなに?」と言ったところだろうが、残念なことにいまこの場に弟はいない。

 ひとまず、おとなしくディララはフィクレトに手を引かれておくことにした。

 なにしろ誰もが外套の頭巾をかぶっているため、誰が誰だかすぐにわからなくなってしまうのだ。個人を判別するために、外套に様々な固有の刺繍をするのだが、それだってよく見なければわからない物が多い。ディララとフィクレトの蔓草模様は、それほど珍しいものではないのだ。


「屋台を回るのは後で良い?」

「そうね。ナムークが来てからで……」


 ディララが頷いたときだった。


「おや、フィクレト殿ではないですか」


 真正面から近づいてきた壮年の男性がフィクレトに声を掛けた。

 恰幅の良さが外套で隠し切れていない体型だ。白髪交じりの灰色の縮れ髪に黒い瞳をらんらんと光らせた男だった。


「マフムト殿。ごきげんよう」


 フィクレトが軽く会釈をしたので、ディララも頭を下げる。

 マフムト・バーミヤの名はディララも知っていた。

 古くからワミードで美術商を営んでいるバーミヤ商会の現会頭で、シファーア商会の商売敵だ。ディララはフィクレトの父から、マフムトに会ったから全速力で逃げるようにと忠告されていた。マフムトは目を付けた芸術家を見つけると、作品を手に入れるまで執拗に追いかけてくるのだそうだ。

 さすがにこの場ではフィクレトも一緒であるため、ディララは逃げ出すわけにはいかない。


「おや? もしやそちらにいらっしゃるのは……」


 マフムトはディララに視線を向けると、獲物を見つけたハイエナのような目つきになった。

 フィクレトはそんなマフムトに対して笑みを浮かべたまま自分の人差し指を唇に当てて沈黙を促す。


「フィクレト殿は美しい奥方を独り占めしていると組合ではもっぱらの噂でしたが、どうやらそれは真実のようですな」


 にやりと下卑た笑みを浮かべてマフムトが世辞を言う。

 こういったやりとりがディララの前で交わされるのはよくあることなので、彼女は曖昧に微笑むだけだ。

 マフムトのようにディララの絵を自分の画廊で扱いたい者は、ディララに歯が浮くような世辞を次々と並べるのが常套手段なのだ。それをまともに聞いてしまうほどディララは世間知らずではない。


「せっかくお会いできたのに、お話しさせていただけないとはとても残念ですな。ぜひ次の機会にほんのすこしでもお時間をいただきたいものですが、よろしければお約束をさせていただけませんかな?」


 組合の展示会では、出品していない芸術家に美術商の方から直接取り引きを持ちかけることは禁止されている。

 そのため、マフムトもフィクレトに制止されるとディララにこれ以上声をかけることができないのだ。しかもディララは既婚者だ。夫の許可なしに異性が妻に話しかけることは法に触れる。この場合、罰せられるのはマフムトだけだ。


「彼女は大変忙しい身ですので、どうかご容赦を」


 慇懃な態度でフィクレトは年長者に謝罪したが、彼はマフムトをディララに近づける気は一切ないようだ。

 屋敷でも、他の画商がディララを訪ねてきたらすべて追い返すようにと使用人たちに厳命している。

 シファーア商会のディララ・シファーアの囲い込み方は尋常ではないと評判になっている、とナムークが美術学校で聞いたとディララに教えてくれたことがあるが、どうやらフィクレトは徹底的に同業者をディララに関わらせないつもりらしい。


「そうですか」


 フィクレトに断られることは想定していたのか、マフムトはあっさりと引き下がった。

 ディララがフィクレトと結婚している以上、マフムトはシファーア商会がディララ・シファーアの作品を独占していると非難することはできないのだ。


「では、今日はひとまずご挨拶の機会をいただけただけで満足することにいたしましょう。差し支えなければ、名刺だけでも受け取っていただけませんか」


 商売人らしい図々しさでマフムトは名刺をディララに差し出す。

 さすがに名刺を受け取らないのは失礼だろうと思い、ディララはそれを受け取った。

 名刺には活版印刷でマフムト・バーミヤの名前や画廊の住所が記されている。

 ディララが名刺を受け取ったことで満足したのか、マフムトは名残惜しそうにしながらも別れの挨拶をして去って行った。


「それは僕が預かっておくよ」


 名刺を眺めていたディララの手から抜き取ると、フィクレトはすぐさま自分の外套の内側の物入れにしまった。


「君は別に愛想良くする必要はないよ。挨拶したくない相手と言葉を交わすこともない」

「それじゃあ、まるでわたしが周囲とうまく会話や交流ができない人みたいじゃない?」


 不満げにディララがフィクレトを上目遣いで睨んだときだった。


「きゃ……っ」


 背後からどんっと誰かにぶつかられた。


「ララ!」


 身体をよろけさせたディララをフィクレトがすぐさま支える。

 それほど人が密集していない場所に立っていたのに自分たちは邪魔になっていたのだろうか、とディララはフィクレトにしがみつきながら顔を上げた。

 濃紺の外套を羽織った青年がディララの顔を見て大きく目を見開いている姿が視界に飛び込んできた。黒髪に黒い瞳の、どこにでもいるような顔の青年だ。十代後半なのか、外套を羽織っているので性別までは顔立ちからは判別できないが、鼻筋が通っており、唇が薄い。頬の線から推察すると、男性的な容貌だ。

 なにか紙束のようなものを抱えていた。


「君っ! 危ないじゃないか!」


 フィクレトが青年を叱責すると、相手は顔をしかめて人混みに紛れるようにして走って行ってしまった。


「あの人も展示会に参加している画家なのかしら」


 絵を買いに来た人のようには見えなかった。

 紙束を抱えていた様子からすると、この会場のどこかで作品を展示しているか、美術商に自分の作品を売り込みに来たのかもしれない。作品を展示していなくても、美術商に作品を持ち込んで見て貰うことはできるのだ。

 芸術家の中には、自分の作品をいくつも背負って来場し、美術商に四つ五つと作品を見て貰おうとする者もいる。


「どうだろうな」


 青年が自分の画廊の大事な天才画家にぶつかって謝りもせず逃げていったことが気に入らないのか、フィクレトが苦々しげに言う。


「あら……?」


 足下でなにかが触れる感触に気づきディララが視線を下に向けると、さきほどの青年が持っていた紙束の一枚とおぼしき物が落ちていた。


(さっきの人が落としたのかしら)


 ディララは腰をかがめて紙を拾う。

 あの青年の態度が失礼であっても、絵に罪はないというのが彼女の持論だ。

 紙に鉛筆の線のようなものが描かれていたので、さっと目を通したときだった。


「こっ……!」


 これは、と叫びかけてディララは声を飲み込んだ。


「ララ? どうかした?」


 フィクレトはさきほどの青年が謝罪しに戻ってこないことを確認してから、ディララに視線を戻す。


「え? あ、なんでもないわ」


 咄嗟にディララは手にした紙を握りつぶすようにして外套の内側の物入れに押し込む。

 しかし、顔は引き攣っていた。


「――そう?」


 訝しむ表情を浮かべて、フィクレトはディララの顔を覗き込む。


「うん! 本当に、なんでもないわ!」


 ディララは自分の動揺をなんとか押し隠しながらフィクレトに告げる。


「さっきぶつかられてどこか怪我したとか、まだ痛いとか、そういうことはない?」

「ないない! 大丈夫! どこも痛くないわ!」


 元気よくディララは答えたが、まだ心臓が激しく鼓動しており、声は上擦っていた。さきほど一瞬だけ見えた紙に描かれていたものが、あまりにも衝撃的過ぎたのだ。


(まさか……まさかで出会えるなんて……)


 まだ疑わしそうにディララを見つめているフィクレトから顔をそらしたのは、興奮するあまり頬が紅潮しているのではないかと心配したからだ。


(これはまさしく……未完成ではあるけれど……!)


 この世に存在していないと思っていた神絵が、展覧会の会場に落ちていた。その事実にディララは衝撃を受けていた。


(神絵師は存在したのよ! わたしの瞼の裏に現れる幻ではなかったのよ! ついに出会えたわ!)


 咄嗟に絵をフィクレトから隠したのは、この神絵が存在してはならない危険な物だからだ。彼ならば、目にした途端に破り捨てただろう。


(美しい肢体を晒して摩訶不思議な服に身を包んだ少女。こんな異端の絵を描けるのは、神絵師だけよ!)


 紙に描かれた絵をディララが目にしたのはほんの一瞬だったが、すでにその絵は彼女の目に焼き付いている。さらには神絵師が実在するという現実に、彼女は気持ちが高ぶるのを必死に押さえていた。

 そんな彼女を、フィクレトは黙って見つめた。

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