帰宅して自室に戻ったディララは普段着に着替えると、外套の物入れに突っ込んでいた紙を手にして寝室に籠もった。

 作業部屋はフィクレトやナムークが黙って入ってくることが多いので(制作作業に集中しているディララの邪魔をしないようにという配慮ではある)、隠し事をするには向かないのだ。寝室であれば、家政婦のセミハや女中のメルヴェであっても勝手に入ってくることはない。ディララが部屋にいるとわかっていれば、入室前に声を掛けてくれるので、見られたくない物を隠す余裕はある。


(これは……未完成ではあるけれど、やっぱりわたしが求める『神絵』だわ!)


 ぐしゃぐしゃになった紙を丁寧に広げ、ディララはそこに描かれているものをじっと見つめた。

 鉛筆で描かれている線は、明らかに人の姿をしている。着色はされていないが、大きな瞳に長い睫、高い鼻梁、ふっくらとした唇、丸みのある頬、繊細な首筋、ゆるやかに波打つ長い髪、すらりとした手足とひらひらした丈の短い服にかかとの高い靴。どれもすべて、この世では描かれてはならないものだ。


(線はしっかりとしているわ。なんども描き直している部分はあるけれど、どれも細かい修正をしているだけね。かなり描き慣れているようだわ)


 寝室の窓際にしゃがみ込み、外から差し込む西日に紙をかざしながらディララは確認する。

 日頃から自分以外の絵を見る機会は少ないが、ナムークの作品を見たり、フィクレトが買い付けた作家の作品や下書きを見せてもらったりしているので、それなりに絵の見方はわかっているつもりだった。


(この絵を描いた人は、こんな絵をたくさん描いているに違いないわ。そうでなければこんなしっかりとした輪郭線を描くことはできないはずだもの)


 カフラマーン美術では子供でも絵を描く際は線ではなく面で描く。鉛筆で描く場合も、しっかりとした線を描かず、面を塗るように対象物を描くのだ。これが幼いうちからできる子供とできない子供がおり、ディララは面を塗るのが得意な子供だった。


(一般家庭でも、線で絵を描く子供は親が面で描くように教えるはずだし、学校でも図画工作の時間に面で絵を描く方法は教わるものだわ。普通は十歳くらいになれば面で絵を描く技術をそれなりに身につけて、線で絵を描かなくなるものだけど、この絵を描いた人はずっと線で絵を描く技術を磨いてきたに違いないわ)


 線の描き方はかなりこなれているように見える。

 一朝一夕ではこんな風には描けないはずだ。


(紙はけっこう上質な物を使っているわね。美術学校で配られる紙はこんなに良いものじゃないはずだから、自分で買ってるってことでしょうね。でも、画材って紙と鉛筆だけでもそれなりの値段がするのに、こんな絵を描くために紙ではなく上質紙を使っているってことは裕福な家の人ってことかしら)


 ディララは美術学校に通っておらず、完全な独学で絵を描いているので美術学校には詳しくはないが、ナムークが美術学校で描いた絵を持って帰ってきたのを見る限り、この神絵ほど上質な紙は配られていないようだ。

 習作用の画帳や鉛筆などの画材は美術学校で学生に無償で配っているが、そもそも画材は高い。

 ディララが子供の頃に使っていた画材はどれもいとこたちが使わないからとお下がりでくれたものだし、画帳は白い余白が残らないくらい隅々まで使って絵を描いていた。


(この神絵師は美術学校には通っていないんじゃないかしら。美術学校に通っていたら、日常的に抽象画の勉強をするからこんな神絵は描けないように思うもの。こんな輪郭線がしっかりした絵を普段から描いていたら、美術学校で描く作品にもその片鱗は現れてしまうはずだから教師たちに指摘されるでしょうし、絵の描き方を矯正されるでしょうし、そもそも異端な絵を描いていることに気づかれたら美術学校は退学になるはずだわ。絵を描くのが好きで、美術学校に通っておらず、それでもこんな上質な紙に絵を描けるってことは、貴族かしら)


 一枚の紙に描かれた絵から、ディララの推理は深まっていく。

 カフラマーン王国の貴族はフィクレトの画廊の顧客にもたくさんいるが、絵画は自分の屋敷の壁の装飾品であり、価値が高い絵を飾っていることで自分の品格も上がっていると勘違いしている者が多い。純粋に絵を愛している者は少ないのだが、そういった貴族たちの多くはディララの絵を理解して購入しているわけではない。

 フィクレトはそういった顧客をあまり歓迎していないが、ディララは気にしていない。自分でもどこが良いのかよくわからない絵ばかりなので、絵の良さがわからない人々が投機目的で絵を買ってくれることに不満はなかった。


(美術学校に通わずにこれだけ独自の世界の絵を描けるってことは、もはや天才というよりは神……! ということは、やっぱり神絵師!)


 人間を見たまま描くこと自体がカフラマーン美術では禁忌だが、さらに神の怒りを煽るような独特な衣装を身に常ている姿を描いているのだ。

 只人であるはずがない。

 カフラマーン美術の中には退廃芸術というものも存在するが、神絵のように人の姿をしっかりと描くことは不健全どころの問題ではない。異質なものだ。神への背信行為と言ってもいいくらいだ。


(神への反逆ってなんか若気の至り感がないでもないけれど、でも芸術って反骨精神とか世界への反抗って側面もあるから、具象画を描くことは既存の芸術に対して喧嘩を売ってるってことで芸術家の魂の叫びが籠もっていると言っても過言ではないわよね? きっとこの神絵師は世間に対する鬱屈した気持ちをこの絵に込めているのよ!)


 次第にディララの絵に対する推察は絵師本人の内面へと映っていった。

 ただ、そのほとんどは彼女の勝手な憶測というか、妄想だ。根拠はどこにもない。

 可愛らしい容貌と妖艶な肢体を持つ可憐で蠱惑的な美少女絵は、この世界にたぶんたったひとりしかいない神絵の評価者であるディララによって、素晴らしく高尚な絵として評価された。

 彼女は、魔法で溢れた瞼の裏の異世界でこのような絵が実際にはどのような評判を得るものなのか、まったく知らないのだ。


(わたしの瞼の裏に浮かぶ神絵に比べればまだまだがあるけれど、それでもこの絵はもっと手直しすれば完成したときには神絵になるかもしれない絵だわ!)


 じっくりと見れば見るほど、ディララは胸が高鳴るのを感じた。

 描き手の技術はつたない部分もあるが、これほどの線画を描ける人物はカフラマーンにはまずいないはずだ。こんな絵を描いているところを人に見られたら、子供だろうが大人だろうが即座に異端者扱いされる。


(フィクレトやナムークがこの絵を見たら、きっと『おぞましい』って言うでしょうね。それとも黙って破くかしら?)


 ディララは想像するだけで笑いがこみ上げてくるのを、必死で堪えた。

 寝室でひとり笑い声を上げていたら、誰かが心配して様子を見に来る恐れがあるからだ。

 なにしろ普段から作業中は独り言が多いらしく、彼女に自覚はないのだが、絵に向かって話しかけながら筆を動かしていることも珍しくないらしい。黙り込んだかと思えば絵を見つめながら涙を流したり、険しい表情を浮かべて睨み付けたり、延々と絵に説教をしていることもあるらしい。

 ディララはまったく身に覚えがないのだが、ナムークから「絵に向かって喋っていたかと思うと急に寝落ちしているから、寝言だったのかと思ったくらいだよ」と言われたこともある。

 絵を描いている間は躁鬱状態でかなり情緒が不安定になっているらしいが、ディララ自身は無我の境地なのでまったく覚えていない。我に返るといつの間にか絵は完成しており、できあがった絵が自分の描きたかったものとまったく違っていることで落ち込むことはよくあるが。


(誰もがおぞましいと思うような絵! でも、この絵を描いた人は、おぞましいと思って描いていないわ! つまり、神絵を極めようとしている絵師ってことよね!?)


 ディララの瞼の裏に浮かぶ神絵は、魔法の画布で描かれているため、様々な色彩で濃淡が表現されている。きらきらした輝きや艶、立体的な明暗は魔法の画布ならではの色だ。あの技術を絵の具で手塗りをするとなかなか真似できないことを、ディララは頭の中で理解していた。

 神絵そのものは魔法の世界にしかないもので、まったく同じ神絵をこの世界で完成させることは不可能に近いだろう。

 しかし、神絵師がこの世界に、しかもワミードに存在しているのであれば、少なくとも神絵のような絵が実際に見られるということになる。


(――見たい!)


 鉛筆画を睨みながらディララはぎゅっと紙の端を両手で握る。


(この絵が展覧会会場に落ちていたってことは、十中八九は作家があそこにいたってことよね。こんな神を冒涜するような絵が落ちていたのに誰も騒いでいなかったってことは、この絵を拾ったのはわたしだけってことになるわ。つまり、神絵師の存在に気づいているのはわたしだけのはず!)


 組合の展覧会会場でこの人物画を見つけて狂喜乱舞してこっそり持ち帰るのは、ディララくらいのはずだ。会場にいる九割九分九厘の人は、この絵を見た途端に真っ青になって組合の事務局に通報するだろう。組合の幹部がこの絵を見たとなれば、会場に危険物を持ち込んだと言って騒ぎになることは間違いない。

 もしくは、この絵を持っているだけで危険思想の持ち主だと疑われるのを恐れて、見つけた人は千々に破いて捨ててしまうかもしれない。

 大げさではなく、それほどまでにこの絵が物騒な存在であることは、ディララも重々承知していた。

 ディララ以外は良い評価をしない作品という意味では、彼女の推察は合っていた。


(この神絵師を探し出したい! そして、ぜひもっと神絵を描いて欲しい! できればもっと神絵を極めて欲しいわ! もしかしたら無理な相談かもしれないけれど……。だってこの絵を誰かに見られたら絵師は神の鉄槌が下されるかもしれないしないんだから!)


 想像するだけで、ディララは興奮するあまり笑い声を上げそうになった。

 この絵を見た自分に天罰が下るなどは考えてもいなかった。

 なぜなら、自分は以前から瞼の裏で神絵をいくつも見ているのだ。もし神絵のような具象画を見ることで神の怒りを買っているのであれば、とっくに彼女のふたつの瞳は光を失っていることだろう。


(そうよ! この神絵を描いた絵師を探し出して、わたしが支援すれば良いのよ! となれば、展覧会の会場で探すか、それとも画材屋を回ってこの紙を買っている人を探すべきかしら。でも貴族なら、自分で画材を買いに行ったりはしないかもしれないわよね)


 うーん、とディララが首をひねったときだった。

 こんこんこん、と扉が叩かれる音が耳に入った。

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