明るい杏色の生地に若草色の糸で蔓草模様が刺繍された外套を羽織り、ディララはフィクレトとナムークと三人で馬車に乗った。

 フィクレトの外套は若草色の生地に杏色の糸で同じく蔓草模様が刺繍されている。

 ナムークは亜麻色の無地の外套だ。

 カフラマーン王国では外出の際は男女ともに常に頭が隠れるような外套を羽織る。夏になると生地は薄い物になるが、春先は羊の毛織物の外套を着ることが多い。

 外套は首の部分を紐や鎖、ボタンで留めており、頭巾フードの部分は室内では背中に垂らしておく。

 髪も男女ともに長く伸ばすのは、首筋を髪で隠すためだ。

 男性は髭で顎の輪郭を隠す者もいるが、男性聖職者以外はあまり髭を伸ばす者はいない。

 頭は髪で覆われているのでわざわざ頭巾をかぶらなくても良いのだが、男性は加齢とともに頭頂部が薄くなり、地肌が見え始める人がいる。もともと髪の量が少ない人もいるため、外では頭巾をかぶることが推奨されている。特に禿頭は頭の輪郭がはっきりと見えてしまうため、頭巾をかぶる必要がある。カフラマーン王国では鬘や帽子があまり流通していないため、外套の頭巾で頭を覆うか、布を頭に巻くのが一般的だ。

 身体の線が出ないよう、下着の上に長衣を纏い、さらに外套を頭から羽織る。

 服に男女の違いはないため、顔以外をすべて布で覆うと男女の区別はほとんど付かなくなる。

 国外の人間に言わせると、カフラマーン王国の服装は機能性に乏しいものだが、カフラマーン王国の民にしてみれば男女で異なる服装をしている国外の人間の方がおかしいのだ。

 動物に目を向ければ、雌雄どちらも同じ姿をしているものがたくさんいる。

 特に、カフラマーン国教会でもっとも神の寵愛を受けているとされる羊は、雌雄どちらも身体の輪郭がわからないほどもこもこした毛で覆われている。牧羊はそれほど盛んではないが、そんな羊の恩恵にあずかろうと、カフラマーン王国では羊の毛で織った外套を羽織る者が多い。


「……眩しい」


 馬車に乗り込み、外の景色を眺めていたディララは目を細めてぼやいた。

 ディララが久しぶりに外出すると聞き、家政婦のセミハと女中のメルヴェがはりきって支度をしてくれたのだが、なぜかまず風呂に入れられ、髪に香油をまぶし、化粧をされ、下着と上着も新しい物を着せられ、とすっかり着せ替え人形状態にされた。

 おかげで馬車に乗り込んだときには午後になっており、陽射しもわずかに西に傾きかけていた。

 屋敷を出る際に時計を見たところ、フィクレトが展覧会へ出かけようと誘ってきてからすでに一刻が過ぎていたが、フィクレトもナムークも待ちくたびれた様子はなかった。


「人がたくさんいるわね。お祭りでもあるの?」


 広場へと続く大通りの歩道には大勢の人が歩いている。

 皆、普段着ではあるもののなんだか楽しそうだ。

 組合の展覧会に向かっているようには見えないため、近くで祭りがあるのかとディララは考えたのだ。


「今日は王太子殿下の誕生日だから、王宮前で祝い菓子が配られるんだよ。きっとみんな、それを貰いに行ってるんだろうね」


 ディララの隣に座るフィクレトが説明する。


「あぁ、なるほど」


 日々暦を見る生活をしていないディララは、今日が何の日なのかもほとんど意識しない。

 絵の制作には基本的に締め切りがないし、自分の誕生日も気にしない。フィクレトとナムークの誕生日はできれば当日に「誕生日おめでとう」くらいは言おうと考えているが、だいたい誕生日が来たことに気づくのは誕生日が過ぎた二、三日後だ。

 まして、いくら自国の次期国王とはいえ、他人の誕生日などディララの気に掛けるところではない。


「王太子のアルタン・マダド様は今日で二十一歳になられるんだよ」


 フィクレトは丁寧に説明してくれた。


「第一王妃のシェイマ・エチェ様には、前に一度だけお会いしただろう? あの方が王太子殿下の母君だよ」

「王妃様……うん、覚えているわ。瑠璃色の長衣の方ね」


 青い衣は藍染めによる藍色が一般的だが、第一王妃は珍しい瑠璃色に染めた長衣を身に纏っていたことをディララは思い出した。

 長衣は染めると手間暇がかかって値段も上がるため、庶民は染色していない生成り色のまま着ることが多い。外套は庶民でも富裕層であればそれなりに値が張っても染めたり刺繍をしたりする物を仕立てるが、ディララが持っている染めた長衣は藍染めと草木染めだ。


「あの色ってどうやって出すのかしらって思いながら見たわ」


 ディララは第一王妃シェイマ・エチェの肖像画を依頼され描いたときのことを思い出した。

 現国王タルドゥ・マダドには、二人の王妃がいる。

 宰相メーメット・エチェの娘シェイマ・エチェと、商人の娘ゼーラ・オカイだ。

 国王は王妃それぞれとひとりずつ王子をもうけており、第一王妃の産んだ長子がアルタン・マダド、第二王妃が産んだ次子がバルラス・マダドだ。

 王子たちの名前だけは世間に公表されているが、その姿を知る者は少ない。

 なにしろ世継ぎの王子と目される二人は、ほとんど王宮から出てこないからだ。

 肖像画はあるにはあるが、ディララが描くような抽象画のため、本当の姿形を知ることはできない。

 今日の王太子の誕生祝いでも、庶民が王太子の顔を見る機会はないはずだ。

 皆は配られる祝い菓子を貰って王太子の存在を認識し、「王太子殿下、お誕生日おめでとうございます」と口々に祝う。

 ディララも幼い頃は、ナムークと一緒に祝い菓子を貰いに王宮に行ったことがある。


「……そういえばわたし、王宮からの帰り道でナムークと一緒に迷子になった覚えがあるわ」


 王宮に向かって歩く人々を見ながら、ディララの中で記憶が甦ってきた。

 行きは皆が同じ方向に向かって歩いているので簡単に王宮に辿り着けたのだが、帰りはどの道を歩いてきたのか覚えておらず、ナムークと手を繋いだまま途方に暮れながら通りを立ち尽くしていた。

 そこはちょうどシファーア商会の店舗の近くだったため、店から出てきたフィクレトがディララとナムークを見つけて声を掛けてくれたのだ。「どうしたの?」と。ディララは王宮で祝い菓子を貰って帰る途中だが迷子になったことを説明すると、フィクレトが住所を聞いてくれて、親切にも家まで送ってくれたのだ。

 それが、フィクレトとの出会いだった。

 おかげで二人は日没前に無事自宅に帰り着くことができた。

 途中、歩き疲れたと言って泣くナムークをなだめるため、ディララは自分の分の祝い菓子もナムークにあげたものだ。


「覚えてないな」


 当時号泣していたことはきれいさっぱり忘れたのか、ナムークは首を横に振る。


「フィクレトに家まで送ってもらったのよ」

「あれ? ララはあの日のこと、覚えていたんだ」


 驚いた様子でフィクレトが声を上げる。


「覚えているわ。ナムークがわたしの分のお菓子を食べても泣き続けるから、フィクレトが通りの露店で焼き栗を買ってくれたこととか、その焼き栗をナムークはひとりで抱え込んでわたしに一個も分けてくれなかったこととか」

「……覚えてないな」


 食べ物の恨みは怖ろしい、という表情を浮かべてナムークが返事をする。

 食べた方は覚えていなくても、食べていない方は何年経っても忘れないものだ。


「そういえば、確かに焼き栗を買ったっけね。あのときララが一個も食べられていなかったとは知らなかったな」

「いいのよ。わたしはお姉ちゃんだから、泣いている弟が泣き止むなら焼き栗は食べられなくても我慢しようって思ったもの」

「我慢はしても、そのせいで食べられなかったってことをいまだに覚えているんだな……大抵のことはすぐに水に流す姉さんが……俺が祝い菓子と焼き栗を独占したことを……」


 ナムークの呻き声を聞きながら、フィクレトは笑いを堪えるような顔をして手で口を押さえている。


「あれから十年くらいは経っているかしら」

「わかったよ。焼き栗を売ってる屋台があったら、姉さんに買って返すよ。あと、祝い菓子も貰ってくるよ!」


 ナムークは御者に声を掛けて馬車を停めさせると、扉を開けて素早く下りた。


「先に展覧会に行ってて! 俺は、祝い菓子を貰ってから行くから!」

「え? 別にお菓子は……」


 そこまで祝い菓子を食べられなかったことにこだわっているわけではない、とディララが言う前に、ナムークは歩道を走り出していた。

 配られる祝い菓子は数に限りがあるため、早く行かなければ貰えない恐れがあるのだ。


「………………行っちゃった」


 窓から外を眺めながら、ディララは人混みの中に消えた弟の行動力に呆れ返る。

 十年前は姉の手を握ってわんわん泣いていた子供と同一人物とは思えない成長ぶりだ。


「まさか君があの日のことを結構詳しく覚えていたとは意外だったな」


 なぜか嬉しそうにフィクレトが言う。


「王太子殿下の誕生日って聞いて、思い出しただけ」


 あのとき以来、ナムークと二人で王宮へ祝い菓子を貰いに行ったことはない。

 海軍に勤める父が、王太子の誕生日には祝い菓子を手土産として持ち帰るようになったからだ。

 左手でナムークと手を繋ぎ、右手でフィクレトと手を繋いで人の通りが減った夕刻の道を歩いて帰ったのは、後にも先にもあの日だけだ。

 その日、サフラ家まで姉弟を送り届けたフィクレトは、ディララが描いた絵を初めて見たのだ。

 送ってくれたお礼にとフィクレトに父の出張土産の干し林檎を振る舞っていた際、居間の長机の上に置きっぱなしになっていた画帳の絵に彼が目を留めたのだ。


「あの日、僕が君に『絵の才能があるよ』って言ったこと、覚えてる?」

「それは覚えてないわ」


 照れ隠しでもなんでもなく、ディララは本当に覚えていなかった。

 なにしろ、あのときは祝い菓子と焼き栗が食べられなかったことで頭がいっぱいだったのだ。


「そこも覚えていてほしかったんだけどな」


 悔しそうにフィクレトが呟く。


「毎日、朝の挨拶代わりみたいに言われているから、最初に言われたのがいつかなんて思い出せないだけよ」

「――なるほど。言い過ぎもよくないのか」


 得心がいったという顔で、フィクレトはうんうんと頷いた。

 そうこうしているうちに馬車は王宮へと続く大通りを逸れ、組合の展覧会が開催されている広場に到着した。

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