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「ララ。僕はこれから組合の展覧会に行くんだけど、もし良かったら君も行かないか?」
床に座り込んでため息をついているディララの様子を見かねたのか、フィクレトが外出に誘った。
一日中作業部屋に籠もって絵を描いているディララは、滅多に屋敷から出ない。
画家は売れる絵を描くことが
そんな謙虚な彼女の態度にますます世間はディララ・シファーアを神聖化し、隠遁生活を送る孤高の天才画家として賞賛する。
実際はものぐさなだけだが、そんな彼女の性分を知っているのは身内だけだ。
「展覧会……」
「君の創作意欲を刺激する作品が見られるかどうかはわからないけれど、気分転換にはなるかもしれないよ」
フィクレトは珍しく熱心にディララを誘う。
彼が言うところの『組合』は王都の芸術家や美術商たちの集まりである『ワミード芸術家組合』だ。
半年に一度、組合の本部の近くにある広場で『展覧会』という名の美術品即売会が三日に渡って開かれる。
ここでは画家や彫刻家などの芸術家たちが自分の作品を展示して美術商に売り込んだり、一般の人に販売したりすることができる。また、自宅に眠っている絵画や彫刻を売ることができる競売が催されたり、美術品の鑑定会などもおこなわれる。
入場は無料だが、自分の作品を販売する芸術家たちは参加費を支払う必要がある。組合に所属している組合員であれば参加費は少額だが、非組合員は組合員の三倍の参加費を支払わなければならない上、展示用の区画は広場の隅が割り振られることが多い。それでも、無名の芸術家の中から王国の美術史に燦然とその名を輝かせることになる原石を探し出そうと、会場の隅々まで作品を見て回る美術商はいるため、芸術家たちはこぞって参加する。
広場はとにかく広いので、普段は作業部屋と自分の寝室の往復しかしていないディララは、すぐに歩き疲れてしゃがみ込んでしまうのだが。
(久しぶりに出かけてもいいかな。って言うか、いまって何月だったっけ?)
どう見ても魔物の吐瀉物にしか見えない自分の絵から目をそらしつつ、ディララは考える素振りをする。
画家の中には外の風景を模写する者もいるが、新緑溢れる公園の光景を描こうとして混沌とした地獄絵図を描いてしまった黒歴史を持つディララは、基本的に絵を描く作業はすべて室内でおこなっている。
日中は陽光を浴びて絵を描くと澄んだ空気の色が画布に写し取れる、という名言を残した画家がいるが、ディララは太陽光だろうが月光だろうが蝋燭の明かりだろうが、模写できたことは一度もない。
そんなこともあり、自称モグラ画家のディララは作業部屋の窓を開けて外の空気を吸うことはあっても、外に出て陽射しを浴びようと考えることはほとんどないのだ。
(たぶん、
部屋の隅の花瓶に生けられているのは目にも眩しい黄色い水仙だ。
この作業部屋に置いてあるディララの描きかけの絵はどれも色彩がどす黒いため、明るい色の花を飾らなければ陰気になるのだ。
「今回も君の好きな屋台が出ているらしいよ」
「……行くわ」
屋台と聞いてディララは床から立ち上がった。
展覧会では広場の一角に食べ物の屋台がたくさん軒を連ねるのだが、どの屋台の食べ物も芸術品さながらに見た目は美しく味もおいしい物ばかりなのだ。
特にディララのお気に入りは宝石寒天だ。
透明な寒天に様々な着色料を混ぜた菓子で、光にかざすときらきらと輝き、味は甘い。食べると口の中に入れただけで溶けるような柔らかいものから、弾力性があるものまで様々だ。
その他に美しい飴細工や、花や果実の砂糖漬けなどの屋台もある。
蜂蜜をたっぷり染み込ませた甘ったるい焼き菓子と、果物にたっぷりと練乳をかけたものも彼女の好物だ。
食べ盛りのナムークは串焼きの屋台ばかり回っている。どの屋台もたれの味が違うので、いくら食べても食べ飽きないのだそうだ。
つまり、姉弟揃って展覧会の展示物よりも屋台の食べ物の方に興味を持っている。
「俺も行く」
床に落ちている画布を拾って片付けていたナムークがすぐさま姉に近寄る。
「たまには師匠以外の作品を見ることも勉強になると思う」
ディララの弟子をしながら王立美術学校の絵画科で学んでいるナムークは、珍しく画家の卵らしい主張をした。ただ、会場に着くとまっさきに屋台に向かってしまうのは食べ物の匂いに嗅覚が刺激されて、色気より食い気状態になるので仕方ないのだといつも言い訳をしている。
一方のディララは他の芸術家の作品にはほとんど興味がないため、最初から屋台目当てだ。
なぜなら、彼女が見たいと思う作品が会場にないからだ。
(神絵が会場のどこかで見つけられるなら、三日間ずっと展覧会を見て回るのだけど)
ディララが求める『神絵』がこの世に存在しない以上、展覧会の作品はどれも彼女の創作意欲の燃料にはならない。彼女にとって絵を描く動機は、瞼の裏でほんの一瞬だけ見られる『神絵』を自分で画布に描き写すためだ。
「宝石寒天をセミハのお土産に買ってこようかしら」
セミハ・ディークはこの屋敷の家政婦だ。
家令カーシム・ディークの妻で、ディララよりも四つ年上だが、家事の一切を取り仕切ってくれており、ディララやフィクレトの信頼も厚い。
「姉さんはセミハへの土産を考えるより先に、身支度をするのが先だよ。どんな服を着て出かけるか考えてる?」
色とりどりの宝石寒天のことで頭がいっぱいになっているディララに、ナムークが尋ねる。
「服………………うん」
現在の自分の服装に目を向けたディララは、絵の具が染みついた生成り色の作業着ではさすがに外出するわけにはいかないことに気づいた。
滅多に出かけないため、袖を通していない外出着が箪笥にたくさん眠っていることだけは覚えている。家政婦のセミハと女中のメルヴェに勧められて流行の婦人服という物を何着も仕立てたのだが、画商のフィクレトと違ってディララは人前に出ることがほとんどないため、ディララが結婚後に着飾ったのは新年に義父母の屋敷へ挨拶に行ったときだけだ。
「着る物は、たぶんある、はず」
「たくさんあるよ。姉さんが思ってる以上に、ね」
呆れた様子でナムークが告げる。
「服ってのは箪笥の肥やしにするものじゃなくて、着るものなんだよ?」
「わかってるわ」
「絵が、誰かに鑑賞されて初めて芸術品になるように、さ」
「そうね」
ディララの絵は、完成した際はただの絵画だ。
それを芸術品にしているのは画商のフィクレトであり、鑑賞するために絵を買った購入者だ。
画家本人が絵の出来栄えに満足しようがしまいが、絵は鑑賞者によって秀作にも駄作にもなる。絵を評価するのはディララではない。
いつもディララは、絵の購入者たちは作品に興味があるだけで画家に興味があるわけではないと考えている。だから、画廊には顔を出さないし、組合に名を連ねてはいるが寄り合いには参加しない。自分は絵を制作してフィクレトの画廊を儲けさせるのが仕事だと考えている。
ただそれは、ディララが売れっ子画家だからできることだ。
彼女が描いた絵は、いつも誰かが見てくれる。
フィクレトは新たな作品が完成するたびに絶賛し、画廊で顧客たちに新作の素晴らしさを力説する。彼はディララの絵を売ろうとしているのではなく、自分の画廊に彼女の作品を展示できることを喜びとして客たちに絵を見せているだけなのだが、そんな彼に共感した客たちはこぞってディララの絵を欲しがる。
自分が恵まれた環境に身を置いていることは、ディララも認識している。
「わかってるんなら、いいけどさ」
普段は師匠の世話を焼いている弟子の顔をしているナムークだが、たまに弟の顔になる。そんなときの彼は、現実が見えていない姉をとがめるような表情を浮かべていることが多い。
(わたしはわかっているつもりだけど、ナムークにはわかっていないように見えるんでしょうね)
ディララは小さくため息をつく。
「そうだ、ララ。この前、僕とおそろいの外套を作っただろう? あれを着たらどうかな」
いま思い出したといった顔でフィクレトがわざとらしく提案する。
「…………そんなの、作った?」
まったく記憶にないディララは首を傾げる。
「作ったよ! 五日前に届いたじゃないか!」
フィクレトが力説する。
「あー、なるほど。最初から展覧会に着ていくつもりだったんだ。だから、あんなにしつこく仕立屋にできあがりの期日を確認していたんだ」
納得した様子でナムークは義兄を横目で見る。
「セミハに聞いて……いや、僕がセミハに言うよ。せっかく新しい外套を作ったんだから、ぜひ着ようよ!」
有無を言わさずフィクレトは新しい外套を着ることを主張する。
「……姉さん、着てあげたら?」
「別に、服にこだわりはないから、なんでもいいけど」
天才画家ディララ・シファーアの名を汚さない服装を一応は心がけている彼女としては、フィクレトが勧める服を着ることに抵抗はない。なぜなら、常に誠実な画商に見えるような服装を心がけているフィクレトの服選びに間違いはないからだ。
ディララが了承すると、なぜかフィクレトは両手で拳を作って小さく「よしっ!」と意気込んだ。
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