志和編 温かな手がコンセントを抜いた
夏越はじめが迷いなく、空調室外機の隙間を歩いていく。勝手知ったる様子に、周囲の協力者たちは驚かない。彼が事件を解決するとき、こうして行ったことがない場所を見てきたかのように案内するのは、いつものことだった。
そして、彼は、冷たく明るい部屋を暴いた。
ごうんごうんと、ポンプが水流を操作する音が響いている。京介が見たときよりも大きくなった人体の部品が、チューブの中を揺らめいていた。
はじめの手が、そっとチューブを撫でる。その目は、薄茶色の優しい光をたたえていた。
「私と同じだったかもしれない彼ら。でも、そうならなかった」
志和は、はじめの目でじっと見てから、壁の分電盤に近づく。ためらいもなく、彼女の意思で、大電源が落とされる。
水流を発生させているポンプと、冷却システムの電源が切れ、研究室は静寂に包まれた。
まるで黙とうのような時間が過ぎてから、はじめは部屋の外に待機する仕事仲間たちに声をかけた。
はじめを先頭とした公安のメンバーが、東生大に突入した瞬間だった。
夏の暑さによって、チューブの中身は腐り始めていた。悪臭が、歴戦の捜査員たちにすら吐き気を催させる。
「現時点では、人の脳のどこに魂が宿るのか、解明できていない。安易に脳を作るということは、人を殺すリスクを負うことになる。科学者なら真っ先に叩き込まれるべき、倫理の問題だ」
まるで科学者のように説明するはじめを、仕事仲間たちはじっと見た。
「端的に言うと、人として機能する大脳と小脳を作ってはいけないということだ」
科学者として夏越イレは、はじめの口で語りながら、彼は水槽のなかに手を入れた。
持ち上げたそれは、ぷよぷよとしていた。頭蓋骨で守られていないそれは、とんでもなく柔らかく、そして異臭を放っている。
荒谷教授の研究の成果の一つで、志和になるかもしれなかった一人だった。
「げええっ」
捜査員の一人が、廊下に走り出て嘔吐する。
現場をまとめる大男が、はじめに声をかける。
「この研究所では、やばい実験をしていたってことだな」
「ああ」
電源をついさっき落とすまで、脳細胞たちは生きていた。はじめはそのことは言わないように、イレに口止めする。
「おめでとさん。お前たち夏越家を非難していた教授の研究室なんだろ、ここ。復讐できて良かったな。執念の捜査でもしたのか?」
仕事仲間の大男は、にやりと笑った。
「とはいえ、今のままじゃ、何が罪なのかわかりづらい。科学を俺たちみたいな素人さんに、説明する必要がある。お前、弟が科学者なんだろ。さっきの演説を聞けば、お前自身も、ずいぶんと科学に詳しいみたいじゃないか。報告書をまとめるのを手伝ってくれや」
「ああ、それが俺の仕事だ」
イレが快諾する。科学をわかりやすく説明するのは、彼の日常業務の一つだ。ましてや、科学者が探偵の体に入って、出来ないはずはなかった。
仕事仲間たちが、チューブを捜査していく様子を、志和はじっと見つめていた。これで、彼女の故郷は見納めだった。
見慣れぬ故郷を、志和は感慨深く見つめて、言う。
「あとは彼という問題を、解決すれば、本当に終わりだね」
夏越の面々は、彼女の言葉に頷いた。
(あの手の相手は諦めると言うことを知らない)
(前代未聞の罪だ。重い罰が下るとは思えない)
(このまま荒谷を見逃せば、忘れた頃に闇討ちされそうだものな)
一人がそっと志和に聞く。
(志和はそれで良いのか?)
志和はチューブが解体される様子からも、脳髄が腐っていく匂いからも、立ち去らない。
「わたしの家族と故郷は、夏越家関係にしかないよ」
そう言いながら彼女は、はじめの仕事仲間から促されるまで、じっとその場を動かなかった。
はじめはやれやれと、志和の首を振った。
その夜、夏越神社のHPは更新された。
『皆様、長らくお待たせして申し訳ございません。延期としていた夏越の夏祭りですが、二週間後の土曜日および日曜日に開催いたします。奮ってご参加くださいますよう、夏越神社一同、伏してお願い申し上げます』
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