青春編 善い裏切り

 彼女は、ベッドでシーツの海に浮かんでいた。機械音が断続的に、彼女の生存を知らせている。荒谷はその横で、その機械音を聞きたくないと願っていた。

 六年前から、彼女は眠っている。助かるはずの手術を失敗したことで、彼女は自分の体に閉じ込められている。

「既存の科学では助からない彼女を起こす。他分野を放り捨てて、魂なんてオカルトに傾倒したのは、そのためですか」

「やっぱりオカルトだと思っていたんだね、七瀬くん」

 荒谷は清潔な病室にそぐわない、汚れた白衣の前を閉めた。学会を終えてから、ひどく寒く感じていた。スマホは先ほどから電源を落としている。下世話な記者にも、無粋な上司にも、もう、何も話すことはない。

「最初は、彼女の体の悪い場所を、万能細胞で作った新鮮なものに入れ替えれば良いだけだと思ったんだ」

 七瀬は悲痛な顔をする。その話はもう何度も聞いていた。続きもわかっている。

「脳がダメになっているなら、入れ替えても、彼女は別物になってしまう。だから、人間の意識の核、魂を見つける必要がある」

 そう、荒谷は、常日頃から言っていることをつぶやいた。そこに、以前までの力強さはない。

「そう思って、やりたくもない論文代行もやったし、所属したくない大学の研究室にも入った」

 七瀬が高校一年生の頃、この病室で偶然に出会ったとき、そう、打ち明けて彼は泣いた。その、すがる姿を見て、彼女は、この人の味方をしようと、心から誓ったのだった。

 それが、今はどうだ。

「今までのことは全部無駄だった。魂を入れ替えられる家族がいるなら、研究なんか、もう必要ない。どうすれば『夏越家』になれる?」

「世の中のために、研究をしていたのではなかったのですか。自分と同じ思いを誰もしないようにするという言葉はどうしたのですか」

 夏越家の醜聞を書き記した雑誌は、サイドテーブルでほこりを被っている。七瀬はそれを指し示した。

「こんなことをして、今さら、夏越さんたちが許してくれるとでも?」

「許される」

 荒谷は断言した。

「そのために、彼らを追いつめた。彼らは神社に祀られた神様だ。きっと彼らは俺を救ってくれる。いや、俺は救わなくていい。彼女さえ救ってくれれば」

 彼はいつ手に入れたのか、木札をサイドテーブルに飾った。そこに書いてある名前は連名で、七瀬の知らない女性の名前が記されていた。

 七瀬は、ああ、私はこの人の大事なものの名前すら知らず、命運を賭けていたのだな、と思った。いっそ感慨深かった。

 破滅させたいのに、望みを叶えてほしい。相手に甘えて、矛盾した態度はおおよそ人間を相手にしたものではない。それはまさしく、神に対するそれだった。

「彼女のこと、聞いたことなかったですね。どういったご関係ですか」

「俺の最愛の人。それ以上、聞く必要はない」

 彼は愛情を、彼女以外に向けることがない。七瀬はその事実に、初めて気がついた。

 七瀬は当然、神ではない。破滅に走った植物園の管理人と同じく、彼女は肩を落とす。

「荒谷教授、夏越家に助けを求める方針は、変えられませんか。その方針で助かるのは、あなたとあなたの彼女だけです」

「僕の研究の成果だって、本来は、彼女を助けるため。僕にとって、方針は変わっていないよ」

 七瀬は、脳内で、ぷつんと蜘蛛の糸が切れる音を聞いた。

「いつも通り、俺に協力してくれ」

「わかりました」

 従順に頭を下げる彼女の顔を、荒谷は見ていない。見ていたとしたら、協力を疑わないなんて、あり得なかった。

 彼女は憤怒の表情を浮かべて、病室を去った。


 ※


「それで、京介はこの女を連れてきた訳ね」

 夏越家がリビングに集合している光景に、京介はぐっとくる思いを飲みこんだ。

 日差しが差し込んで、夏越家の人々を照らしている。夏越レルは和と隣り合わせで小競り合いをしており、夏越イレと革は我関せずといったようにそれぞれの作業をしている。カコシダはどっかりとソファを占拠している。

 そして、志和は、京介の隣に静かに座っていた。

 夏越綿が、七瀬に問いかける。

「私たちに協力したいというのは助かるわ。でも、なんであなたがそうしたいのか、私たちにはさっぱりわからないの」

 情に厚い夏越家は、懐に入れた人物を決して裏切らない。どうして、七瀬がこの世のものとは思えない、美しい笑みを浮かべながら泣いているのか、彼らには理解できなかった。

 七瀬は花がほころぶように口を開く。

「あの人は、私の忠告を聞きいれたことがありません。どれだけ心配しても、引き返せと言っても聞いてくれたことがありません。これからだってそうでしょう。私の愛は彼には届かない」

 だから裏切りました、と笑う彼女に、誰かが言った。

「それだけ?」

 ぎゅるんと周囲の顔を見渡した彼女の顔を見続けていられたのは、カコシダと綿、はじめ、そして志和だけだった。

 七瀬はたがが外れたように爆笑する。

「身を削って与えた愛が通じないことが、それだけとは。さすが神様だ」

「そうだね。愛は相手に返してもらうことを、考えちゃいけないよ」

 彼女はその言葉に、すっと笑みを消す。

「だから、あなた方は神様だと言うのです」

 リビングテーブルには、東生大に隠された研究室の情報と、荒谷教授の大事な人の話が書かれた紙が並べられている。

 七瀬からの供え物に、綿はそっと指をはわせた。

「確かに、私たち、夏越家は受け取ったわ。救われるか、復讐が成就したかは、自分で決めなさい」

 綿、志和、イレ、革、レル、はじめ、夏越田の視線が交差する。

「情報はこれで全部集まった」

「どうする、志和」

「お前から始まった話だぜ。お前が決めろ」

 志和は京介を見てから、大きく頷いた。

「夏越の時間だ」

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