志和編 学会 1
「人間の細胞のほとんどが三ヶ月で新陳代謝して入れ替わるなかで、同一性を保っている理由はなんだと思いますか?」
男は真新しい白衣を着ている。まだ若いとは思えないほど威厳に満ちた態度だった。
聴衆は皆、彼の常ならぬ態度に困惑していた。
「答えは、わからないとされてきました。骨が残っているからか? 脳みそか? 脳ならどの部分か? いや、どれも細胞レベルでは新陳代謝して、同一の物ではなくなっている。それなのに、我々は何十年も出来事を覚えていることができる。それはなぜだ」
背後のプロジェクターは彼が話し始めてから三十分間、資料を一度も写していない。リモート参加の学生たちは、自分のPCの不調を疑って再接続を試みている。
老年の科学者が、隣席に座る旧知の仲の科学者に囁いた。
「彼は何を言いたいんだ。内容はレジュメとも違うぞ」
「僕にはさっぱり」
学会は静寂に満ちていた。著名な教授の発表時間だからではない。むしろ、衝撃的な事実であるほど、ざわめくものだった。衝撃的な内容ではある。発表者以外は驚愕している。
それでも、誰も静止し得ないほどの圧力を、目の前の彼から発せられていた。同行者であるはずの慶長教授は、ただ、頭を抱えて机に突っ伏している。
荒谷要教授の何かが違うと、その場の全員が思っていた。
東生大学の大講堂の中、ステンドガラスが夜を映している。三十人ほどの中央の列を陣取って、男と女子高校生が講義台を睨んでいた。
「正念場だぞ、志和」
「わかっているよ」
夏越志和は目深に被っていたフードの隙間から、荒谷教授を伺い見た。隣に座るのは、科学者の夏越イレ。
彼らは、自分たちを執拗に狙う存在と、対決を申し込みにきた。
「目標は荒谷教授があきらめること。手段は論破でも、トリックでも何でも良いからな」
「がんばる」
科学者の自分たちへの執着心を薄れさせるため、彼らは、学会の場で荒谷教授と討論を申し込み、教授に自分の能力を疑わせる。もしくは、他に研究対象を見つけさせる。
難題に正攻法で立ち向かうべく、二人と複数人の夏越家は、壇上の彼に厳しい目を向けていた。
細胞分野について、何人もの手を使って調べ上げ、無数にある不可思議な点をまとめてきていた。しかし、先ほどからの彼の様子に、それらは無駄なものになりつつあった。
(哲学の時間か、これは)
(わかんねえ。普通の状況じゃないよな)
(皆の反応的に異常事態っぽいね)
困惑したように、夏越の誰かがつぶやいた。
場は混迷の一途をたどっていた。荒谷教授は熱に浮かされたように、自我の同一性についての持論を展開している。ついに誰かが、野次をいれた。
「ここは哲学の場ではない。再現性のあるデータを提出したまえよ」
ぴたりと教授の言葉が止まった。
訪れた完全なる静寂に、志和はごくりと喉を鳴らした。
荒谷教授は、人当たりの良い笑顔を浮かべていた。まるで発表前に印象を良くしようと試みるプレゼンターのような顔で、彼は言う。
「おお、そうでした。忘れていました。今までのお話は前段、アイスブレイクです」
彼はレーザーポインターとPCを操作する。その日初めて、プレゼン資料が表示され、見守っていた科学者は画面を見た。リモート参加の学生たちが画面を手元に引き寄せ、会場参加の夏越イレたちはプロジェクターの映像に注目した。
志和は、まじまじと見なければ良かったと、心から思った。
(最悪だ)
夏越はじめがつぶやいた言葉がすべてだった。
万能細胞培養技術を高めていくうちに、荒谷教授は「これは、新生児の発育と何が異なるのか」と、疑問に思い始めた。
未熟児を培養層で育てたところ、発育した。だから、これは培養ではなく育成ではないか。つまり、自分が失敗してきた実験対象の細胞一つ一つは生命だったのではないか。そんな自責の念に、彼は駆られることとなった。
「しかし、安心してください」人工授精もせず、万能細胞の部品を組み立てて作った人造人間たちはすべからく発育しなかったと、彼は言う。スライド資料にもおびただしい数の実験記録が映し出される。
人間としての部品は全て組み入れても、ある一定の段階で、絶対に発育は停止する。何が足らないのか考えた荒谷教授は、ある一つの結論に至った。
「僕はそれを、魂だと確信しています。テセウスの船はテセウスの船と名付けられる期間が必要なのです」
机にこぶしを打ちつける破砕音が響いた。壊れた木片を冷めた目で見る荒谷教授に向かって、慶長教授は血が滴る右手を突きつけた。
「何なんだ、君は何だ、そんな妄言のために、この慶長の機材を使っていたというのか」
「あなたの機材ではない。僕が書いた論文で、僕が交渉した補助金で作り上げた研究室でしょう。僕のもののようなものだ。後ろ盾になってくれたのだけは功績ですね」
「うるさい! どれだけの人を犠牲にしたんだ。そんな人間だと知っていたら、絶対にこの大学に引き入れなかった」
「逆です。魂に関する特異データがこの周辺にあったから、僕がこの大学を選んだのです」
プロジェクター画面は司会によって電源ごと切られていた。慶長教授を皮切りに、喧々囂々と非難の声が集まる。
怒号の中でも、荒谷教授は揺るがない。
「僕の望みはもうすぐ叶う。その前に研究成果を世に出してあげているんです。信じるかどうかは検証実験を行えばいい」
「俺たちにも人工授精や人体の培養、縫合を行えと? 狂っている!」
夏越志和は茫然と立ち上がってしまっていた。隣では兄が荒谷教授に怒号を浴びせている。
「科学を、人を、何だと思っていやがる!」
(ああ、こいつに、自分を疑わせることができるのか?)
兄姉に言われるまでもない、難問だった。
(荒谷教授の信用は地に落ちた)
(それでも、この分だと夏越家への攻撃をやめそうにない)
(夏越家が資料にでてこなかった)
(あいつはなんであんなことをしている?)
志和は思う。今まで言われたことを思い出せ。何か突破口はなかったか。
湯本京介なら、どうするのか。
彼女は口を開いた。
「わかった」
「何がだ?」
「荒谷教授が何がしたいのか」
そう言うと、志和はフードを取った。彼女と荒谷教授の目が合う。
荒谷教授は、幸せそうな微笑みを見せた。
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