青春編 大学の一番明るい部屋
広大な大学には無数の扉がある。講義棟への入口からサーバー室につながる重厚で密閉性に優れたものや、意図せずマンホールにまぎれた機械室の入口が当てはまる。
「そしてこれが正真正銘、秘密の扉です」
七瀬が植え込みの奥で身を屈めた。そこには大型空調機の室外機が何十台と設置されている。背丈以上の室外機間の隙間に彼らは行く。意図的に迷路のように、配管や間仕切りがされているなかを、七瀬は迷いもせず案内した。
「施工した会社は公共事業を主に行っていたけど、認可を急に取り消されて倒産した。ここの大学の工事に携わったのが最後の工事。だからこの部屋の存在を知っているのは、学長と慶長教授と、要さん、いや荒谷教授だけ」
たどり着いたのは腰ほどの色の違う壁面だった。言われなければ扉とわからないそれは、慶長教授が自慢したパイプの走った部屋の直下にある。
協力関係になった今、志和が出て行ったことに関係がある、教授の秘密の研究所を見せておきたいと七瀬は京介に行った。その秘密の研究所が、目の前の扉の向こうにあった。
単なる大学の行きづらい部屋に、事前にエチケット袋を用意させる秘密が眠っているらしい。扉を開ける前に、京介は問いかけた。
「荒谷教授はどこだ。黒幕にいきなり会えるのか」
「今までの研究成果を発表するんだと、学会に行きました。二日は確実に帰ってきません。新幹線のチケットを手配したのは私ですから」
「わかっているか。この扉を開ければ、お前は荒谷教授にとって裏切り者になる」
夕暮れの薄明りの下でも、七瀬が汗だくであることがわかる。もう夏だった。京介はどこかで蚊に刺された腕がかゆいと、その日初めて思った。
七瀬は汗もぬぐわない。
「とっくに救いの道がないことは知っています」
そう、質問の答えにもなっていないことをつぶやいて、彼女はその扉を引いた。
慶長教授に見せられたチューブはそのままその部屋に接続し、天井からぶらさがっていた。慶長教授のサーバー室のチューブでは、細胞の小片が流水にもまれていた。
この部屋のチューブでは、細胞は大きく育っていた。枝分かれと統合を繰り返し、三本のチューブとなっていた。臓器か手足、もしくは脳にまつわるものに種別されて、まとめているため、三本だった。
「大雑把な分類だな」
京介の感想が内容の割に、冷ややかな声で部屋に響いた。
七瀬は答える代わりに、本題を口にした。
「万能細胞で人体を作れることは有名です。じゃあそれをツギハギしたらどうなるか知っていますか」
チューブの終端では大型の試験管やシャーレが置かれている。透明な生理食塩水に濡れたそれらは年季の入っていた。まるで、十八年以上使っているかのようだ。
「正解は、法規制で行ってはいけない、です」
「本当の正解は?」
「志和ちゃんを除いて、魂がない人間が出来上がりました」
京介はチューブを撫で、幼なじみの生まれた場所を見渡して、深呼吸した。魂の実在も、幼なじみの出生の秘密も、頭の中に入っていかず、どこか脳の表層を滑るようだった。
「私が見た例を教えましょうか」
そう言う七瀬の顔は真っ白で、京介は彼女が話すのを止めた。
口を噤んだ彼女は、その代わりと言うように、近くにあった三角フラスコをつかみ。思い切り壁にたたきつけた。
丁寧に使われていた三角フラスコが粉々になって、周囲に置いてあった実験機材を使えないものにした。
それを見て、七瀬は力なく笑っていた。
「湯本さん、これ、絶対違法ですよね。法律じゃない、倫理観もやばいですよね。殺人ですよね。だって作ったものなのに、息をしていたんです。志和ちゃんもあんなに元気なんです。そうなる可能性が、今まで処理してきた細胞には、細胞のツギハギには、あったってことなのではないですか」
そう言ってチューブに試験管を投げつけるも、柔らかな素材でできたそれは揺れるだけだった。
「私が殺した」
七瀬が片手で顔を覆ってうずくまった。三角フラスコの破片が蛍光灯の明るい光を反射している。床についた七瀬の手に、ガラスくずが食い込んでいた。
京介はチューブに背を向けた。両手は黒い皮手袋でおおわれていて、夏越はじめに教わった通り、現場保全に努めていた。
「荒谷教授は学会か」
ガラスが降りかかったPCでは、生物理工学の小規模な学会案内が表示されていた。発表プログラムに荒谷教授の名前がある。著名人だからか、最終盤に記載されていた。
講評として、アメリカ在住の高名な教授を呼んでいることも併記されていた。その名前は、京介もよく知っている名前だ。
京介は、うずくまる彼女を一瞥した。
彼にとって、夏越志和がどのような経緯で生まれようと、興味はない。胎内とチューブの違いを意識することは、彼らの友人関係に影響はない。
夏越志和はただ、生まれてきただけだった。七瀬のように手を汚した訳ではなく、現在まで元気に夏越家の一員として生きてきた。
何も問題はないと友人に言う前に、事をとにかく荒立てる陰気な大人たちを殴りに行こう。そう、京介は考えてから、床にうずくまる同級生に声をかけた。
「志和が特殊な生まれなのはわかった。でもそれは、あいつが出て行った理由にはならない。あいつはそれくらいで、今までの付き合いを見直すような殊勝な精神をしていないからな」
七瀬は信じられないものを見る目で京介を見た。
「普通なら、自分が得体の知れないもので構成されていることを知ったら、アイデンティティ崩壊の危機ですよ」
京介は知っている。夏越志和は国語が解けない。夏越家に生まれた彼女はそもそも、アイデンティティが特殊だ。特殊であることに理屈はついても、特殊であるという事実は変わらない。
彼女のアイデンティティは、人間であることでも、他人と同じように生まれてきたことでもない。自分にへそがないことは、然したる問題ではない。
だから、彼女が出て行くとしたらそれは、逃避のためではない。
「俺は志和を信じているから。絶対、戻ってくる」
「あなたは志和が好きだから、無理に納得したいだけでしょう」
京介は否定しない。一顧だにしない。既に、彼は納得していた。
「私はどうしたらいいの」
「俺が知るかよ。俺は志和のことしか知らねえ」
その妄執が、七瀬にはまぶしく思えた。彼女にはもうその情熱がない。生理食塩水に手を荒れさせながら実験器具を洗って、志和たちと話して、明るい植物園で一緒に花を見たせいだった。
七瀬は茫然としながらも、歩き去る京介の背中を追った。
彼らは、扉を開けて出て行った。二人とも、一度も振り返らなかった。
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