志和編 はじまり
ここで『夏越志和』の話をしたい。入れ替われる一家に生まれた突然変異。特殊な一家の特別品が彼女だ。京介からは見えない身内の話では、彼らからしても様々不可解な部分が彼女にあった。
彼女はそもそも魂のない存在だった。
通常、夏越家が家族を見つけるには、夏越家となった人物からの夏越家の脳内ネットワークへのアクセスが鍵となる。和のように自分の頭のなかの靄や、はじめのように夏越家の不思議を探るうちに、夏越家の入れ替わりの世界に足を踏み入れることで、彼らは夏越家になる。
どんな人間にだって魂はある。そう、夏越家の長女、夏越綿は確信していた。その確信が崩されたのは、とある養護施設の前を通りかかったときだった。
道路に引かれた白線の内側をのんびりと歩いていた彼女は、気が付けば、赤子の体のなかにいた。ぼんやりとした視界で見える鏡には体を映している。口からはあぶあぶと喃語がでる。
当時は、夏越家の期待株が接触してきたと、彼女は喜んでいた。
夏越綿にとっては、全人類が『夏越家』にまだなっていない人であり、今の夏越家はたまたま綿に接触してきた『夏越家』である。
「赤ちゃんの魂が接触してきたのは初めてだけど、がんばろうね!」
そう言って、赤子の体のなかから家族のなかを探し回った彼女は愕然とした。どこにも赤ちゃんの魂がいなかったのだ。
彼女は経験則で『夏越家』であることを無理強いした人間にも、砕けた魂は残っていることを知っている。それでも、今喃語を出す口の主は、どこにもいなかった。
数ヶ月の検証の末、魂のない体の存在を渋々ながら、彼女は認めた。
空となった夏越綿の体は、原因不明の意識不明として扱われて、今は夏越の自宅に帰っている。魂がなくなった体の挙動も、夏越家は初めて知った。
「じゃあ、この体、どうやって扱おうか?」
彼女が次に『家族』に相談したのは、空である赤ちゃんの体の処遇についてだった。
夏越和は顔をしかめた。
「どうもなにも、その体は夏越家とは関係のないものだ。俺たちと違って、夏越家に関わることもない。綿さんがその体から出て行って、それで終わりだ」
それに異論を唱えたのは、カコシダだった。彼は夏越に改名してから数十年、自分の生きることに宗教的、運命的な意味を見出そうとしていた。
「儂らがこう生まれた意味があるように、その子が空の体だと綿に気づかれたのにも意味がある。」
「そうねえ、それにこの体がいる場所、なんだか居心地が悪いわあ」
和は脳内で舌打ちした。その不快な感情は全員に過たず伝わっている。
夏越綿は成人女性であり、夏越家として何人分もの経験を積んで共有している。その目で赤子の生育環境を見たとき、それは決して良いものではなかった。
「このままだと金銭で取引されて、教育もろくに受けさせてもらいないでしょうね」
「じゃあ俺たちが引き取ろう。夏越家と縁ができた仲だ。入れ替われる俺らなら、いくらでも世話のしようがある。生活の所作を体に覚えさせればいい」
それは夏越家のなかでも特に情に厚い夏越レルの言葉だった。
「わかっているのか。魂のない体を引き受けるということは、夏越家で世話を見続けるということなんだよ」
「問題ないね。それに今、魂がなくとも生きるうちに芽生えるものがあるはずなんだ」
それは夏越家以前に、音楽に魂を救われた経験のあるレルにしか言えないことで、音楽に価値を見出せない和には理解できない言葉だった。
「私は魂は元からそこにあるもので、後から芽生えることはないと思うけど」
「おい、綿姉さんは誰の味方なんだよ。あんたが最初に会った赤ん坊だぜ」
「それは」
夏越綿は喃語を話していた口を閉じた。いまだ、名前すらつけてもらえていない赤子の目には、異様な近づいてくる白衣姿の男が映っていた。その光景は、他の夏越家も見つめていた。
「まさか万能細胞をつなぎ合わせて、人間を作り上げるなんて」
「魂の研究のため、無垢な人間の調査が必要でした。まさか、魂のない体が出来上がるとは思いませんでしたが」
「しかし、こう見るとただの赤ちゃんだね。本当に魂とやら、ないのかい? 魂がないからなにされてもつらくないだろうって君は言うけど、俺にはそう見えない」
「小学生になれば特徴が顕著にでるだろう。それに、信じられなくとも、お前は今後この先この子とは会うことはないんだろ」
「確かに、違いない。俺はお前に決裁して予算を出しただけだからな。予算の使い道をミスったからと言って、その後の処理までは付き合ってられない」
「お前はクズだな。そのおかげで僕は助かっているわけだが」
白衣の男が背後の男と話す言葉で、夏越家の面々はこの赤子が抱える事情をすべて理解した。
どうして劣悪な環境に身を置かせるのか。それは教育を受けさせないことで、自分の出生の秘密に少しでも近づけないようにするためだ。彼女の体は先端科学でできている。むやみな調査で調べても気づけるはずはなくとも、念には念をということなのだろう。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
突然、目の前の赤ん坊が泣き始めて、男二人はびくりとした。泣いている赤子の目は見開かれて、男たちを凝視している。
まるで抗議されているかのような、異様な雰囲気に彼らはそそくさと去っていった。
彼らが十分に離れた後、その赤ん坊ははっきりと呟いた。
「くそが。俺たちの妹に何しやがる」
その後、ミュージシャン志望だという汚い恰好をした年若い男が、その女の赤子を引き取ったのは数日後のことだった。
通常なら、彼のような男を養父とした養子縁組は認められない。引き取られた後の生活を行政が案じるからこそ働くセーフティネットだ。しかし、そのときはなぜか働かない。意図的に破られて、彼女は彼「村田恭輔」に引き取られた。
「もう心配だ。俺が、村田恭輔こと、夏越レルがこれからお前を助けてやる」
声をかけられた彼女は、まったく反応を返さない。魂がない彼女の目には、当時は、何も映していなかった。養護施設の職員はほっと息をついた。彼らからしても、反応のない彼女の世話はつらく、憂鬱なものだった。
『村田恭輔』から養護施設への連絡が途絶えても誰も気にしない。いつしか日常の忙しさに、村田恭輔と引き取られた赤子のことなど、思い出しもしなくなった。
村田恭輔が、自分の名前を芸名の『夏越レル』に改名して、引っ越しをしたことを、知る者は誰もいなかった。
公務員が、ずさんな自分たちの監視から、彼女がいなくなったことに気がついたとき、彼の足取りは追えないものとなっていた。彼は、人の不幸を祈った。
※
引き取られ、夏越家の保護下に置かれた彼女は、日常の所作を覚えただけの人形だった。所作一つ一つ、夏越家でプログラミングしないと動かない。授業でどのようなふるまいをするか、彼らは根気強く教えていた。
だから、何の変哲もない平日、不審者とそれに対峙する友を前にした『夏越志和』から、夏越レルに入れ替わってほしいと頼んだとき、彼らは仰天したのだ。
認めよう。夏越綿は今まで、志和のことを『人間』だと認めていなかった。
けれど今、夏越志和は、立派な一人の『夏越家』となった。夏越綿は目を細めた。
志和は姉をにらみつけている。綿にとっては心外な表情だった。
「ねえ、なぜそんな顔をするの。良い案だと思ったのだけれど」
「どこが名案なの」
「夏越家ならではの解決策だよ」
志和は殴り掛からんばかりだった。この粗暴な態度は、養父の立場であるレルに年々似てくる、と綿は密かに思った
「もう『夏越志和』の汚名をそそぐのは無理よ。別の体で、人生リセットしてしまえばいいじゃない」
『夏越綿』の体を使いなさいと、綿は美しい所作で言った。
夏越綿の体は今、志和が直面しているような事態が起こったときのために、バックアップとして作り上げたものだと、彼女は言った。
「年齢を感じさせない美しい顔に、鍛えられた筋肉。ストレスも貯めていないから、健康そのものの肉体よ。本当は、夏越の誰かが事故か病気になったときに入れ替わるためだったのだけど。まあ、あの醜聞も事故みたいなものでしょう」
先ほど彼女は、志和との出会いと引き取ることに決めたきっかけをすべて話している。志和の体が、得体のしれない技術でできていることも、彼女が志和に諭す材料の一つとなっていた。
「入れ替われば自分の体よ? もしかしたら、あなたの今の体よりもずっと良いかもしれないわ、変なきっかけでできているみたいだし。それに、積み上げた過去が惜しいなら、入れ替わった体で同じことをすれば良いわあ」
それでは意味がないと、志和は拒絶した。
「わたしは綿姉さんが名案を考えていると聞いたから、ここまで来たんだよ」
「だから名案じゃない。私、何か間違ったこと言っているかしら」
志和は、茫然と周囲を見渡した。頼れる兄と姉たちはそろってじっと志和の顔を見つめていた。
外は土砂降りで京介と別れたときの月夜とは様変わりしている。昨日のこととは思えない急な雨に、洗濯物が濡れている。
夏越家のマンションからも、夏越神社からも遠く離れた一軒家が、夏越家の新たな家だとつい先ほど、夏越綿が宣言したばかりだった。
他の家族はその新しい家で暮らすことに異論を唱えない。自分の通勤のため、一人暮らしを始めようと考える者もいたが、口には出さない。彼らは大人で、自分の住む場所は自分で変えれば良いと知っている。
「わたし、ようやく気づいたの」
志和は訴えた。
「わたしは『夏越志和』のまま、生きていきたいの。だから、その提案は飲めない。今まで通り、おだやかに暮らしたい」
「こうなった以上、おだやかに暮らすのは、無理よ。体を変えて、リセットした方が良いじゃない」
「それじゃ、今まで通りじゃない」
「どうして?」
志和の脳裏に、ベランダでうずくまる京介の姿が浮かんだ。
彼女はそのことを口に出そうとして、やめる。家族に考えることは伝わっている。それでも、彼のことを言い訳にはしたくなかった。
綿は押し黙る志和を見て、ぴしゃりと言った。
「甘えるんじゃない。叶えたい望みがあるならば、自分で方法を考えなさい」
綿は自分たちの末っ子を甘く見ていた。末っ子は常に助けられてきた。他人の力を信じていた。その環境と、『夏越家』であることが相まって、最後には自分の言う通りにするのだと思っていた。
志和は、その場に跪く。怪訝な顔をした綿の顔が驚きに満ちる。
「何のつもり?」
彼女は土下座をしていた。
綿は困惑した。彼女にとってはどの体も、自分の体だ。夏越家の家族は全員、自分と同じだと認識していた。
だから、自分の選択肢にない行動をとる夏越志和を、彼女は狼狽して見た。
「負けたくない」
志和の押し殺したような声が床を這った。
「わたしはわたしでいたい」
勇ましい言葉に、レルが笑う。
「だから、わたしにまつわる陰謀をぶっ潰す。全部」
和の体で事の経緯を見守っていたはじめが、満足したように頷いた。
「だから兄さん、姉さん、わたしに『夏越家』の力を貸して」
床から見つめる縋るような目が、綿を射抜いた。
その目をしばらく見ていた綿は、ふと目を離して、その場にいる家族たちを見渡した。
その場に残っている家族は、最初から『志和』のことしか考えていなかった。綿はこの後の苦労を考え、天を仰いでから笑った。
「嫌だと言ったら?」
かわいい末っ子が人の悪意に触れる。そんなこと、決して、認める訳にはいかなかった。
志和はにらみ返した。生まれて初めての反抗だった。
「言わせない」
ぴたりと、綿の動きが止まった。糸で操られたかのように、無理やりに口が閉じられようとする。ある青年が見れば、目の色が銀色と薄茶色で拮抗する様が見える光景だった。
綿は夏越の力を知り尽くした長女だ。ただ、他人を避けて暮らす隠遁者でもある。人と争うことは久しぶりだった。
三分後、志和が深呼吸をした。
「方法は自分で考えるのよ? 志和。これから大変よ」
そう、志和の体で、綿は言った。
天を仰いでいた綿の中の志和が、ゆっくりと綿を見て、歯をむき出しにして笑った。
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