青春編 志和
京介はうなだれていた。
勉強机の前、きしんで少し小さい椅子の上で、貧乏ゆすりをしている彼は、いかにも不機嫌そうだった。
しかし、顔に表情は浮かんでいない。目は見開かれて床に向けられている。
彼のベッドの上には、二冊の雑誌が乗っている。
彼はぼんやりと、友人の将来を考えていた。前号の雑誌を読んだとき、名指しされた「夏越」の名字のせいで将来、就職するときに苦労するだろうと考え、それまでに名字が変わっていれば何も問題ないと思い、その手っ取り早い方法は自分が十八歳になればできると飛躍した。
え、俺って、夏越志和と結婚しても大丈夫だと思ってんの?
ありかなしかと言われれば、ありだ。彼女のそばで無限に時間を使える。ただ、彼女に対して、性愛やそういった欲は湧いた試しはない。
じゃあ、志和と離れることは? それこそ考えたこともなかった。
そんなことを考えていた自分が、京介は、今は悔しかった。
一週間、志和は何もないかのように振る舞ってきた。
特異な名字と、夏越神社の親族であることが知れ渡っているなかで、雑誌に載せられた「悪の宗教法人『夏越会』と悪の一族夏越家」の娘であることは、皆に影で噂の的であったにも関わらず、だ。
今日の学校は特にひどかった。
「おはよう」
何事もなく声をかけた志和の後ろ姿越しに、京介はクラス全体から向けられる目を見た。大勢の戸惑い、疑心、不快感、そして数人のいやらしい感情が、志和越しに充てられた。
夏越家の十台の娘は、志和一人。美形の一家の末っ子。彼女は誘拐されて洗脳されていると、雑誌に書いてあった。ネットにも転載されて、スレも立っている。
やましい気持ちを煽る記事だった。
一冊目の内容をよりあけすけにした記事が掲載された続報が、今朝発売の雑誌の最新号には載っている。
京介は机を力任せに叩いた。机はゆがんで、がたがたと鳴った。もう戻ることはない。勉強するたびに傾いて、不快な思いをすることになるだろう。
リビングからはいつもよりずっと控えめなテレビの音がする。ずっと仲の良い幼なじみの境遇は、居間にいる家族は全員知っていた。その優しさに甘えていることを、京介は自覚している。入れ替わらなくとも、心情は理解できた。
この一週間、志和以外の夏越家に会っていない。雑誌で書かれていることが本当かどうかすら、京介には聞かされていない。
志和には、ずっと聞けなかった。
電気もついていない自分の部屋で、カーテンが揺れた。開けたままの窓から音が漏れてしまったかもしれないのに、抗議の声は聞こえてこない。
いや、ぼそぼそと話し声が聞こえる。隣人の老夫婦を起こしてしまったのだろうか。
体を動かすのはひどくおっくうだった。けれど京介は窓を閉めるため、カーテンを開けた。
月光に照らされて、友人がロープでぶら下がっていた。
逆光になっている彼女がどんな有様になっているか。首を吊ったとき、人はどうなるのか。何も考えられなかった。
京介はベランダの塀の向こうの彼女の胴体に飛びついた。
「うわっ危ないよ」
ベランダから飛び出ようとしていたのは京介の体で、抱きとめたのは志和の片手だった。
ぱちくりと京介はベランダから身を乗り出したまま、ロープの先を見た。ロープはがっちりと上階の志和の部屋につながっていた。
ベランダに降り立つ志和の前で、京介はへたり込んだ。ロープは上階にいる夏越家の誰かから投げ下ろされ、志和はそれを冷静に回収していた。
京介はベランダにため息と共にへたり込んだ。
しゃがんだまま京介が見上げても、逆光の志和の目の色は見えなかった。
軽口を叩く。
「小学生の頃と違って、アクション映画みたいな」
「精神の成熟と運動神経の発達には相関がある説もあるらしいよ。徹夜明けのレル兄さんが言ってたことだから、正解かはわからないけど」
「そうか。うん、信ぴょう性ある説かもな」
夏越志和は、もう、ぼんやりしていなかった。薄茶色が月光で燃えていた。
「私、ここを出て行くよ」
自分の血の気が引く音を、京介はどこか遠くで聞いた。ザッと走ったノイズが去った後、初夏の空気はさめざめとしていた。
やけに景色が青みがかって見える。まだらに靄がかってもいる。
京介は絞り出した。
「そこまでしなくとも」
「はじめ兄さんが逮捕された」
京介にトレンチコートの彼の姿が思い出される。社会人サークルのときの頼もしい姿と、毎朝、業務連絡として情報漏洩してまで家族の無事を守ろうとしていた様子を思い出す。
「はじめさんは、志和を誘拐して、隠しきって、逃げ切るために公安に協力する探偵をやっていたのか?」
じゃあ、夏越家のどれだけがその企みを知っていたのか。絶望的な気分で、立ち上がれず、頭を抱える彼の頭を、温かな手が叩いた。
「おい、おい。今までわたしたちと過ごした時間を思い出してよ」
確かに志和は大事に大事に育てられていた。
「八日目の蝉みたいな。誘拐した子に愛着を持った、そんな愛憎劇とか」
「違う。そんな犯罪を犯してまで、赤ちゃんを引き取る必要はあるかってこと。夏越家だからどこにいたって、いつだってわかる。自分の意思を持つまで待っていたってかまわないし、兄さん姉さんたちはそうだった」
志和は京介の涙をごしごしとこすった。
「わたしたちのこと、もっと信用してよ」
信用したかった。その許しを得られたことで嬉しいのに、彼女は夏越家を出て行くと言う。京介の頭のなかは、悲しみと喜びでぐるぐると混乱していた。
志和の背中には、はじめの趣味の登山バックが荷物を満載している。
「けど、なら、なんであの教授は、あんなに執拗にデマを流すんだ」
「それがわからない。けど、はじめ兄さん曰く、現時点の情報でわかるんだって」
まるでこの間の事件みたいだよね。そう言う志和は、心から嫌そうな顔を浮かべていた。
「遠くに逃げろって、はじめ兄さんは言っていた。けど、わたしはわたしのことを知りたい」
だから、出て行くんだと、志和は言った。
「出て行く必要はないんじゃないか、荒谷教授のでっち上げだろう」
京介自身が信じていない言葉を彼は言う。ああ、つらつらと口から出る言葉は、誰の魂にも届かない。
志和は静かに首を振った。
「現時点での情報でも解ける内容なんだと思う。はじめ兄さんはもう解いていて、後は、解決方法を決定するだけの段階だって言っていた」
「じゃあ、はじめさんに任せればいいじゃないか。それこそ、入れ替われば」
「わたしのことだ。夏越家の名を賭けて、わたし、夏越志和がこの謎を解くよ」
そうじゃないと、生まれてきた意味がないと、彼女は言った。志和は釘を刺す。
「一緒に行く意味はないよ。ついてきても、あなたはわたしたちと違う。同じ目線で物を見られない」
京介は答えられず、ベランダのひび割れを初めてじっくりと見た。蠅が室外機の少しの排水にたかっている。
一秒でも沈黙すれば、彼女は去っていくと、京介は理解した。だから無理やり、まとまっていない思考を口に出した。
「俺はお前の力になりたいんだ」
「なんで」
今更な疑問だった。京介は答える
「お前が、好きだから」
志和はただ、首を振った。その言葉を言うには、何もかもが足りなかった。京介自身の意思も、志和の心も足りない。ただ、現状を肯定したくて言う言葉では、志和は足を止められない。
ただ、彼女は、慰めの言葉だけ置いていく。
「わたしも京介が好きだよ。だから別れるんだ」
あなたと離れて、どれだけできるか知りたいと言った彼女は、小学校の教室で会ったときとは違う、煌々とした意志の光を目に宿している。
「京介は、元気でね」
京介は必死に引き留める方法を考える。
考えて、夏越家の恐ろしさを、京介は初めて気が付いた。
彼らは、自分の体に執着しない。何人かは、夏越家に属する体全部を自分だと認識して大事に扱わない。
今、この瞬間が『夏越志和』との永劫の別れである可能性が高かった。
離れて、時間があいたら、志和は入れ替わりを経て『夏越の別人』になるんじゃないか。怖い。
けど、それでも。京介は夏越家の末っ子の幼なじみでも関わらず、まともな感覚を持ち続けてしまっていた。
京介は最後の言葉に、もう会えなくなるよりはずっとマシだ、という理想を優先した。たとえそれが、夏越志和でない何かの体だとしても。俺は君に会いたい。なら、行かないでと口にする前に、再会できる布石を吐け、湯本京介!
「またな。出かけて、帰ってきたら、どうなったか、教えろよ」
不遜な言葉は涙声で、甲高くなっていた。もうしゃがんだまま、目も見れなかった。涙がたまって、ぼやけている。
気が付いたら、もう夏越志和はいなくなっていた。
※
「起立、礼、着席」
夏越志和は今日も休みだ。あと数日欠席したら、彼女は留年が確定する。それでも、もう触れるものはいない。
最初こそ、京介に彼女の行方を聞く人もいたが、一ヶ月もしないうちにいなくなった。京介の家族曰く、それほど暗い顔になっているらしい。
クラスの噂では、志和死亡説まで出ているほどだ。外れていないかもしれない。自由に入れ替われる『夏越』は汚名を着せられた『夏越志和』として生き続ける意味はない。
マンションの上階は、もぬけの殻だった。綿も和も、レルもイレも、はじめも誰もいない。
京介は教科書に隠してスマホを起動した。今日もメッセージアプリに既読はつかない。
次にサイトにアクセスする。夏越神社は見づらく、最低限の告知をするためだけのサイトを持っている。
夏祭りを延期する旨を告知して、そのサイトは更新を停止していた。
「ねえ、ちょっと良いかしら」
薄ぼんやりと京介は、寝不足の顔をあげる。スマホを眺めているうちに、授業は終わっていたらしい。
受験生の夏、京介にかまう余裕のある先生も生徒もいない。話しかけられるのは久しぶりのことだった。
目を向けた先にいたのは、メイクをしていない、不機嫌そうな薄ピンク色の唇だった。
「七瀬」
京介自身も笑ってしまうほどかすれた声に、七瀬紗耶香は足を踏み鳴らした。
「要さんが変なの。協力して」
「やだ」京介はまたスマホを見始めた。「お前らのせいでこうなったんだから、助けるわけねえだろ」
七瀬は絶句した。目の前の男の憔悴した様子は、あの憎い女といた頃と似ても似つかない。彼女の胸に、感じないようにしていた罪悪感が走った。
それでも、愛しい人のために彼女は言う。
「最近、やたらと夏越に執着して、嫌悪感に吐きながら彼らのことを研究しているの。雑誌での攻撃も、もう、要さんは意図していない方向に向かっている。別のことをやろうとしているみたい」
「話していいのか。それはあのクソ教授への裏切りじゃないのか」
七瀬は迷ったあと、口を開いた。
「このままじゃ、私の好きな要さんが死んじゃうから」
教室には、何人も生徒がいた。会話は聞いていなくとも、次の授業が始まる直前で、教室は静かになりつつあった。
彼女は恥も外聞も捨てて、頭を直角90°下げた。
「お願い。夏越家を助けることにもなるから。どうか、要さんを助けて」
教室中から集まる視線に、京介は前、志和に告白したと思われたことを思い出した。
京介は、ふと思う。あの時、本当に志和に告白していれば、少しは「志和」が、自分と残ってくれる選択肢はあったのか。
いつか間違えた対応が、目の前にあった。
京介は立ち上がった。
「話を聞く。場所を変えようぜ」
久しぶりに力を入れた足は、みっともなく震えた。
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