幕間 休転直下
「は?」
「だから、今回から、東生大に関わる事件からは手を引き給え。依頼が来たとしても、お前は受けてはいけない」
「僕の探偵業にまで、禁止命令を出すのですか?」
警視庁の会議室。大会議室なのに二人しか使っていないその部屋で、はじめが外面をかなぐり捨てていた。
空振りに終わった社会人サークルの捜索から一週間後、発起人であるはずの自分が捜査から外されようとして、穏やかでいられるほうがおかしかった。
「なぜです。この社会人サークルの事件は、僕が探偵しているおかげで見つかった。大学管轄の場所をあれだけ大っぴらに使えるなんて、余罪はいくらでもありそうだ。そのタイミングで、事情にも精通している僕を外す合理的な理由があるんでしょうね」
「合理的、か」
たばこを持った中年男性は灰をとんとんと落とした。制服はたばこのにおいが染みついて、歩くだけで彼がいたことがわかるほどだった。ヘビースモーカーである彼が、全室禁煙の室内でたばこをくゆらす姿は、一定の身分を持つことを示していた。
「そもそも、人は非合理的な生き物なのさ」
紫煙を吐いた彼は、聞き分けの悪い、部下同然にかわいがってきた男の顔をちらりとみた。夏越はじめの目は、彼には、いつも通り爛々と輝いていることしかわからなかった。
卓越した推理力洞察力で現在の特殊な地位に就いたはじめですら、現在、自分が置かれている立場がさっぱりわからない様子だった。
「意味がわからない。ここまで何年も働いてきて、部外者と扱われるのに足る理由があるのでしょう?」
「足りるかはわからんが、理由はこれだ」
投げ渡されたゴシップ雑誌に、はじめの目が点になる。
「長官、何の冗談ですか」
「いいから読め」
はじめは付箋の貼られたページを開く。
表紙にすら載っていない小記事、記事の穴埋め。コラムのような小ささで、その致命的な情報は載せられていた。
「宗教法人夏越会に誘拐された一人娘、大学教授の慟哭……!?」
一昔前のカルトを彷彿とさせる刺激的なタイトルには、悪意が込められていた。悪意がないなんて、絶対に嘘だとはじめは思った。
悪辣な言葉は、夏越家という一家が東京で暮らしていることと全員が血のつながりのない、彼らは男女入り交じった様々な年齢であること、そして、宗教団体の関連を綴っていた。
それだけでなく関係者の言葉として、名門くにたち大学の教授が実名でインタビューに答えている。
「有名ではないが知る人は知る教授だ。それがこれだけ嘘を吐く必要もあるまい。返してほしいと、慟哭した写真まで見せられてな」
はじめは絶句した様子で、その教授の写真を見つめていた。
様子をうかがう男が京介と同じ共感覚を持っていたなら、その目が目まぐるしく色を変えていることに気が付けただろう。
「事実無根です」
はじめは衝撃から立ち直って、どうにかその一言だけ絞り出した。
男の眉が上がる。
「夏越家の血のつながりは?」
「全員、同じ苗字ですよ。こんな珍しい名字、被るなんておかしいでしょう。確かに、兄妹ではないのもいますが、全員遠縁です」
嘘である。レルのように、芸名で夏越を名乗ったあと、改名で夏越と戸籍を取り直した人物もいる。志和に至っては養子だ。
夏越家が集まるのは、入れ替わりができるようになったから。ただ、それだけの理由だ。全国のどこに生まれようと、彼らは同類を見つけることができる。
血よりもずっと濃い動機だと、はじめは思う。ある日、自分が孤独ではなく、本当の家族と一心同体に動けると気づいたときの幸福を、彼は覚えていた。
はじめは、自分の体たちが集まるのは当然だと、言ってやりたかった。
ただ、それはきっと他人には理解されないだろう。だから、夏越と名乗って家族として振る舞ってやってるのに。
人間どもめ。はじめの手の中にあった雑誌が、くしゃりとつぶれた。
慎重に言葉を選びながら、男は聞く。
「宗教と言うのはなんだね」
「長男が家業を継いで、神社の神主をしています。宗教法人ではありますが、毎年、小さな夏祭りをするのが精いっぱいの、健全な神社だ。カルトのように書かれる謂れはない」
これも一部だけ嘘だ。神社であることは確かでも、カコシダが地元住民の顔役となっていることを、はじめは知っている。事あるごとに地域の問題に出張る様子は、その筋の人にも見えることも承知している。
ただ、地域のためになることしかしていないのだからいいじゃないか、とはじめは言いたかった。
ふむ、と長官は顎をさすった。
「では、誘拐と言うのは?」
「それこそ、事実無根だ! 何なんだ、この教授は!」
これだけは本当だ。現在の夏越家は志和を除いて、全員自分の意思で、過去の自分を切り離し、夏越になった。誘拐と言われないよう、念を入れていた。
志和にしても、孤児を正規の手続きで養子に迎え入れた。
夏越家に女は三人いる。はじめにとっては、優しい姉と勝気な妹、そして、手のかかるぼんやりした妹だ。末の妹は最近、自分の将来について考え始めた、大事な時期だった。
彼は誰のことを誘拐された娘と呼んで、そんな中傷をしているのだろうか。はじめは教授のみっともない泣き顔を目に焼き付けた。
憎しみに染まっていく知己の顔を見ないようにして、長官は息を吐いた。
「残念だよ。少しでも嘘を混ぜて話すなんて」
長官は戸籍の束をばさりと投げた。
夏越家の戸籍に入っている人数は、あのマンションに住んでいる人数よりもずっと少ない。養子と記載された人物も、改名と記載された人物もいる。
疑われていることも、下手な嘘をついて事態が悪化したことも、明らかだった。
はじめは、椅子にどっかりと座って、ネクタイを取った。
はあ――――。長いため息だった。
「戸籍を調べるには捜査権がないといけない、そこまで俺のことを疑っていましたか」
「例の社会人サークル事件もあったからな。お前の家族との仲の良さが気になった」
「仲がいいのはいいことじゃないですか」
「良すぎる。それこそ、一心同体か洗脳のようだった」
目の色が変わるとはこのことだと、長官は思った。京介と同じ感想を偶然にも行き当たったのだ。
「まだ、逮捕までは考えていない。教授とやらも雑誌へのタレコミを優先して、俺たち警察に連絡の一つもない。いくら、お前がただれた生活をしてようと、違法性は見受けられないわけだ」
「ただれてませんけどね。あなた、俺の童貞弄りを何回してきたと思っているんですか」
疲れたように忍び笑いを漏らすはじめと、笑わない長官の間に寒々しい空気が流れる。
「待て、その電話は何だ」
はじめがコールを鳴らしているのに、彼はようやく気が付いた。
はじめは哄笑を漏らした。
「衰えましたね、長官」
「まさか。お前!」
長官の脳裏に、はじめとの出会いと今この瞬間までの出来事がフラッシュバックされた。
新卒での入省数か月で頭角を現し、疲れも見せずに働き続けたと思っていたら、突然退職し事務所を立ち上げ、数々の事件を外部から証拠や有力情報を提供する形で助けてくれた、元期待のホープ、現噂の有名人。
まさか本当に、裏切ったのか?
疑問が長官の頭を埋め尽くすのと、着信音が鳴ったスマホを持った自分の部下たちが入室するのは同時だった。
これ見よがしに、大男の部下はスマホを掲げて、通話ボタンを押した。
それを見ながら、はじめは自分のスマホに向かって話す。
「俺は留置場に入ります」
長官は絶句し、周囲の部下たちは口を引き締めた。
はじめはひょうひょうと続ける。
「毎日、尋問してくださってもかまいません。あと、出来れば、捜査のときだけ外に出してください。通信のしようもないなら安心でしょう。お役に立ちますよ」
思わず、と言った様子で、長官は彼を引き留めた。
「悪い噂が熱を持つぞ。今はおとなしくしていろ」
「おとなしくしていても収まるとは思えない。ボールがまだ向こうにある。追撃の記事を出されるなら、こちらからコントロールしたほうがマシだ」
「泥を一人で被る気か?」
はじめはにんまりと笑った。
「このままぼんやりと、家族に悪い目を向けられるのは耐えられない。教授の思惑を粉々にしてやりますよ」
そう言うと彼は席を立った。
部下たちが背後に回るのを気にも留めず、机に頭がつくほど深くお辞儀をした。
「今までお世話になりました。このような事態、申し訳ございません」
長官は思わず、席を立ちあがる。思い切りの良い部下同然の男の手首に手錠がかけられる姿を、目に焼き付けながら彼は言う。
「本当に、お前は誘拐なんてしていないのだな」
「ええ、うちの神社の御神体に賭けても良いです」
そう言ったとき、黄土色に光る眼を、その場にいた全員が幻視した。
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