探偵の体編 インターン 3 序論
「彼がなかなか帰ってこないので、浮気調査をお願いしたいのです。え? ええ、この事務所がそういった依頼を受けないことは知ってました。けれど、どうしても、この依頼は」
志和はただ笑い、依頼人はすごすごと帰っていった。次。
「猫を探して。野良猫だけど、何日も餌を食べないなんて、そんなことなかったわ」
志和がよどみなく、予約がいっぱいで受けられないことを説明する。次。
「一年以上帰ってこない彼女を探してほしい。大学では見かけるけど、話しかけても何事もなかったように対応される。いきなり同棲先から失踪してその対応ですよ」
ただ失恋しただけではないか志和が聞くと、薄々そう思っていたと号泣し始めた。次。
依頼人たちの列が途切れる。次の面会予約は三十分後。京介はコーヒーを差し出した。探偵の姿をした志和は堂々として、様になっている。
ということは俺は志和の助手か? 京介はむずむずとした顔をごまかそうとコーヒーを飲んでやけどした。
「失踪と探しものが多いな」
「はじめ兄さんがこんなチラシを配っているからね」
高級マンションの広告のようなチラシには、『地域の困りごと、集団失踪含む重大犯罪、のみ、ご相談ください。料金は要相談』と書かれていた。
「商売する気あんのか?」
「そう見ると依頼には困っていないみたいだけどね。なんでも渋谷の大きなトラブルを解決したから信頼あるらしいよ」
おぼろげに思い出したという志和に対し、京介は懐疑的だ。
まだ午前中、十時台ということも信じられないと、志和は疲れたようにコーヒーを飲んだ。
「面白いけど、職業にしたいかというと別かな」
「失礼な。まだ数時間しか働いていなくて何を言う」
その言葉は同じ口から出た。
薄茶色の目が輝く。
「あ、はじめ兄さん」
目の色は黄土色に変わった。
「女子高生も疲れるわ。何あの会話のテンポの速さ。俺、けっこう頭良いのについていけない」
「はじめおじい、今のところ一件も依頼受けれてないよ。基準あってる?」
「どれどれ。うん、頭の中見る限りあってる。あと誰がおじいじゃい」
京介が話についてこられるよう、彼らはわざと会話を口に出していた。はたから見れば、口調を二種類使い分けて独り言を言う青年と、黙る男子高生しかいない空間だった。
外は快晴で、大通りが眼下に見える小さくとも居心地の良い事務所の有様に、京介は窓の外を見ることで現実逃避した。
脳みその中身まで共有できる異常な光景を実況中継しないでほしいと思う京介とは裏腹に、彼らは午前の数時間の記憶の吟味に入っている。それはデータを見ながらリモート会議をするサラリーマンたちのようだった。
「浮気調査と動物探しをはじいたのは正しい。時間が許すならそれも助けたいけど、今は依頼がぱんぱんだからね」
強いて言うなら、ただちょっと一年以上避けられている案件が怪しいきがするな、とはじめは言った。
志和と京介は首を傾げた。
「よくある心変わりでも、大学が一緒の相手にこんな、もっと面倒になりそうなやり方で切るかね」
「恋愛関係でやばくなる人なんて山ほどいるでしょう」
「京介くん、知った口きくじゃないか。恋愛わからないを公言する割に」
黙った京介を笑ったあと、はじめは真面目な顔に戻る。
「まあ、はじくのもやむなし。志和、意外とちゃんとやれてるね」
「意外とって何さ」
「このまま、午後までよろしく頼むよ。時間が空いたらまた様子を見に来るから」
「そういえば、今何やってるんです?」
「数学。この体、理系科目が得意なんだな。数学がやりやすくて仕方ないよ」
そう言い残して、目まぐるしく色を変えていた目は落ち着いた。薄茶色の志和は時計を見た。
「休憩時間潰れたね」
そう言うのと、ノックの音は同時だった。
はじめが面会時間ぎりぎりまで話していたことに気が付いた京介は、社会人のタイムマネジメント力に内心舌を巻いた。
志和は一瞬だけコーヒーを見て、残念そうに置いた。
「どうぞ」
入室してきた女性は、他の依頼人とは別物と言えるほど、憔悴しきっていた。隈がべったりと張り付いた顔は乾燥していているのに、髪がべたついているのが見るからに不快そうだった。
アクセサリー一つ身に着けておらず、手指はがさついている。割れた爪も痛々しく、血がにじんでいる箇所まであった。
ひび割れた唇を彼女は開く。
「私の娘のことなんです。でも絶対地域の問題なんです。ごめんなさい」
開口一番の言葉に、志和と京介は顔を見合わせた。
記憶のなかの対応策を探る志和を静止して、京介は女性に話しかけた。
「まずはどんなことがあったか教えてください。それから対応策を考えましょう」
目くばせされた志和が頷く。
京介は頷き返して、女性にそっとティッシュを差し出した。
「娘と連絡がつかないのです」
女性は流れる涙と鼻水を気にも留めない。
彼女はメッセージアプリの会話を、志和たちにちらりと見せた。それは依頼人の女性が一方的に話すもので、どれにも未読はついていない。
「私の娘は、新卒二年目の社会人です。実家暮らしで、周囲にも評判の仲良し親子でした。この前、仕事にも慣れてきたということで、ネットから見つけてきた社会人サークルに入ったと報告がありました」
そこから暗雲立ち込めたと彼女は悲壮感たっぷりに言った。
「連絡がつかなくなる数日前から、部屋の中に虫がいるからと、深夜から掃除を始めました。ずっとごそごそ音がして、私、眠れなくて。それに、私に対して、時々全く知らない人間のように無視することもあって、つらいのです。最近は毎日、顔を合わせる度に口論でした」
志和と京介は顔を見合わせた。
「失礼ですが、警察や病院には行きましたか? 逼迫した状況です。連絡がつかないということは、失踪でしょう。一刻も早い対処が必要です」
「嫌ですよ! ただの失踪で、私が大げさにしているだけかも。そしたら、私がそんな空騒ぎをしたなんて、近所に知れたら」
「なんだって? 明らかにやばい状況なのに、俺たち探偵には頼るのかよ」
女性は少しだけ口ごもった。
「だって、夏越はじめさんに頼って解決してもらったら、むしろ拍が付くじゃありませんか」
「なんだって?」
京介が冷え冷えとした表情で聞き返した。女性は身を縮ませた。
「夏越さんが、地域の事件しか解決しないことは、有名です。だから、あなたに解決してもらえれば、地域の問題に巻き込まれただけと、見てもらえる。むしろ、凶悪犯に立ち向かった勇敢な人、と見てもらうこともできるかもしれません」
「なるほど、つまり、あなたは厄介ごとを解決するついでに、虚栄心も満たしたいと」
「違います! ただ、これからもこの街で過ごすのに、必要というだけです! これは地域の問題ですよ」
京介は渡してもらった書類を破り捨てたくてたまらなかった。志和はそっと京介を止める。
「お受けしましょう」
「そうですか! ありがとうございます!」
女性は飛び上がり、握手をしようとしたところで、志和がそっと拒絶した。
「しかし、娘さんが本当に」
女性は一瞬拒絶しようとして、思いとどまったようだった。
「わかりました。それで構いません」
京介は黙って見つめている。その隙に、志和は契約を結ぶと、女性を見送った。
次の面会予約は一時間後、本来なら、昼食を取るために用意した時間だった。
食事をとる気にもなれず、二人は向かい合う。
「彼女の話は、妄想、じゃないのか?」
「京介。悪いけど、問答に付き合っている時間はない。午後の面会の予約は別日にずらしといて」
志和は慌てたように立ち上がった。
慣れた手つきでジャケットを別のものに着替え、コートを着るまでに数分もかからなかった。はじめの手がハットを被るまで、京介はあっけに取られて動けなかった。
「待て待て待て」
ドアの外にでる志和を京介は止めた。志和は心底焦っていた。
「急にどうしたんだ。昼めしはどうする」
「体が勝手に動く。今動かないと事件は解決しないと、脳みそが言ってる。急いごう。あ、昼ご飯は抜きよ」
「何する気だ」
「決まっている。依頼人のあの女性を追うの」
志和は、京介のコートを投げ渡した。事務所のある雑居ビルの、長い階段を下りていく足音は、ついさっき聞こえなくなった。依頼人は大通りにでたらしい。大通りの人ごみから彼女を見つけられなくなるのに、もう何分も猶予はなかった。
「もう、謎は解けた。解決の時は近いよ」
志和がそう言うのは、名探偵の肉体が本当に事件を既に解き明かしていたのか、ただ、志和が兄の口癖を真似ただけなのか。
京介は、後者であることを疑いながら、コートを羽織って急いで彼女らの後を追った。
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