幕間 根回し

 今日もその公務員は残業中だった。六年たってもろくに出世はしていない。彼は人に仕事を采配するのを嫌っていた。そのせいか、業務効率はろくに上がらず、下働きに甘んじる結果となっていた。

 事務所は雑然としていて、周囲の人間がどんな業務をしているのかもわからない。それほど、彼の業務は自己完結していた。

 彼の六年間の努力の成果だった。

「お邪魔します。相変わらず予算の事務処理ばかりしているのですね」

「恩恵を受けている側がずいぶんなご挨拶ですね」

 荒谷教授は勝手知ったる様子で、事務所の椅子を引っ張ってきて、彼の隣に座った。

 新卒二年目に彼の研究室に誤って、過剰な予算配分をしてしまってから、この奇妙な付き合いは続いていた。

「僕の研究成果が出たからうやむやになって、しかも慧眼だったことになったのでしょう。これくらいいいでしょう」

「うーん。わかった。許す」

 やったあ、と顔を綻ばせる荒谷教授と彼の軽口は、関係性の良好さがうかがえた。

 大学教授ととある省庁の予算審議委員会に属する公務員の付き合いは、奇妙な温かさをもって続いていた。

「今日も遊びにきたのか?」

 公務員の言葉に、教授は首を振って否定する。

 そして、懐から書類を取り出して、公務員に見せた。

 不思議そうに受け取った公務員が読んでもわからない文章がそこには書かれている。六年前の失敗が悪夢を見せることを、彼は読んでも気づけない。

「これはなんだ?」

 言葉に、荒谷教授は落胆の色を隠さなかった。

「わかりやすい言葉が必要かい?」

「そうさ。そのための予算がほしいんだろう」

 公務員は教授を信頼していた。彼の言った通りの理由を添えて予算をつけるだけで、ろくに働かなくてよい業務のポジションを維持することができる。

 魂とかいう、胡乱な研究をしていることは知っているが、予算の理由付けはきっちりしてくれて、成果をだしてくれるのだから問題ない。今回もそのたぐいだろう。

 荒谷は、公務員の予想通りのことを言った。

「魂を脅かす存在がいるかもしれない」

 けれど続けて言った言葉は、彼の予想をはるかに超えていた。

「彼らはそんな意図はないと思う。けれど彼らが彼らであるだけで人間は脅かされる。そう、これは生存競争なのさ」

 公務員はあいまいな笑顔を浮かべている。彼にとっては自分の業務とどうかかわってくるかだけ、教えてくれればよかった。

 それでも荒谷教授は言う。

「夏越家という存在がいる。彼らは体を共有している」

 公務員は首を傾げた。

「荒谷、えっちな話してる?」

「誰がするか。するとしてもお前とするかよ」

 のんびりと笑う公務員の前で、荒谷教授は地団太を踏みそうだった。

「魂だけで移動できる存在がいて、それが『夏越』の名字を名乗る一家として暮らしている」

 ジジ、と蛍光灯が点滅する。観葉植物は根腐れしてハエがたかっている。公務員はただ、暗くなる前に替えの電球をとってこなければならないとだけ思った。

 荒谷教授は何も目に入らない。大学での出来事と、夏越家について知り合いに調べさせたことを話した後、彼は訴えた。

「『夏越』がこのまま増殖していく。お前、ぞっとしないか」

「それが俺の仕事と何の関係があるんだ。俺はただ日々やり過ごせればそれでいい」

 公務員の返事はシンプルだった。

 顔をゆがめた荒谷教授の前に、彼は手を差し出した。

「だから、俺の仕事でその一家をつぶす手立てがあるんだろ。それだけを出せよ。それ以外には興味はない。俺が聞いたところで理解できるはずもないからな」

 荒谷教授は理解できないものを見る目で彼を見た。

「いちおう、人を害する話だぜ?」

「知るかよ。俺には目の前のことと、今までお前に協力して甘い汁を吸ってきたしがらみしかわからん」

 言い切った彼の顔をぽかんとした顔で見ていた荒谷は、少しして、笑いだした。

「本当に、お前のことは信用していないけど、信用しているよ」

「それで良い」

 いつか破滅するだろうと彼にもわかっている。ささやかな願いだが、その前に転職していたいものだ。転職サイトを開いていたタブを閉じて、公務員は荒谷教授の企みを受け取った。

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