高校生編 オープンキャンパス 急
簡単なことだった。夏越家の特性で窮地に陥っているならば、夏越家の特徴で切り抜ければいい。
そして、夏越家だとしても、文明の利器を使わずにいる必要はない。
遠く、アメリカの研究所、研究者に与えられた個室でPCのチャット欄が光る。それを一瞬で読んだ研究者の体が一瞬傾いだ。
彼は息をついて、伸びをした。
久しぶりの体は凝り固まって、どれだけ彼が不摂生しているか、先ほどまで健康だった人からすればよくわかった。
「上手くいくと良いけど、しばらく、見られないんだよね。どんな風に計測器にひっかかるかわからないし」
のんびりとした口調は、常の彼を知っている同僚からすれば、目をむくものだった。
それどころか、彼がのんびりとコーヒーを淹れ始めたと知れば、きっと彼らは彼の病気を疑ったことだろう。
夏越イレの体で、夏越志和は、先ほどの出来事を思い出していた。
京介の指示は一行だった。
「入れ替われ イレと志和」
0.3の端数を算出していた魂の持ち主は、ぼうっと窓の外を眺めた。
先ほどまでいた日本と違って、研究所の外は真夜中だった。月の見え方も違う異国で、志和は京介の意図を考える。
異常値が目に見えるなら、その異常値の原因を取り除く。簡単な結論のようで、志和の体で接してきた以上、志和を避難させることを考え着くことは意味がある。
「夏越に慣れてきたね、京介」
アメリカのコーヒーは本場ならではの酸味があって、志和にはおいしく感じられた。
端数の志和はしばらく、自分の体に戻れない。少なくとも計測器の周囲から逃れるまでは。イレが動かす志和の体から覗き見ることすら、研究者の計測器に感知される。
自分の体から完全に切り離されるのは、志和にとって、初めての経験だった。
そういえば、と彼女は思う。
「魂の計測値、わたしはゼロじゃなくなったみたいだね」
志和は知らず知らず、微笑みを浮かべた。
七瀬は困惑する表情を見せていた。
彼女の夏越志和の印象は、凡庸でぼんやりしたクラスメートであり、敬愛してやまない恩師とは全く違う人間であると思っていた。
狼狽したような様子の七瀬を、京介は面倒な思いで見ていた。
小学生の頃、転校してきた当初の光景が目の前にあるようだった。志和の口で一流の研究者が話しているのだから、この光景になるのも、京介からすると不思議でも何でもない。
志和の目は、深緑に輝いている。
「再現性があるのは本当なのか。現に今、誤差値を出している訳だが。魂ではなく質量から類推する機械というだけじゃないのか。人感センサーは市販品だろう」
「魂はある。脳波での再現性もある。質量の違う類人猿および人間での治験は既に完了している。論文が来月発表予定で今、査読中だ」
「査読者、誰だよ。僕、いや、私の親戚にも研究者がいる。そいつに見せたい。論文の元データを検証する材料をよこせ。その機械の設計図も見せろ」
「ああ良いさ、刮目しろ」
研究者たちは舌戦を繰り広げていた。
夏越志和の体に入れ替わったイレが真っ先にしたのは、計測器たちをひったくり、見聞することだった。
箱型計測器には「4」と表示されていた。
彼らはもう見向きもせず、コンピュータ上にプログラミング画面と、機械の設計図を広げて、検証を行っていた。
その姿は研究協力の姿のようで、七瀬は茫然と立ち尽くした。知識不足の彼女には決してできないことだった。彼女の奥歯がぎりっと鳴る。
教授が楽しそうに、夏越を見た。
「さっきまでと雰囲気違うね。こんなに話せる人とは思わなかったよ。僕、天才って言われてて話が合う人、全然いなくてさ。」
「それはお前が、こんな穴倉に引きこもっているからだろ。これが私の素だよ。私ごとき、探せばもっといるぜ」
しれっと志和の体で、イレは言う。
後から志和が聞いたら怒るだろうな。京介は遠い目をした。自分の知らないところで風評被害が広まっていくのは彼女も何度味わっても慣れないと、志和本人は以前言っていた。
楽しそうに、荒谷教授は改善点をまとめ上げた。
「いや、君のおかげで詰まっていたところ、全部進みそうだ。君を雇いたいくらい。どうだろう、七瀬くんと同じように、研究所の手伝いのバイトをしてくれないか」
「七瀬、バイト扱いだったのか」
「バイトは無理だ。私は忙しい」
志和の顔で、イレはにべもなく断った。
その顔を七瀬はにらみつけている。
忙しいと言ったのはイレで、イレは現役の優秀な科学者だ。本来ならば、嫉妬の対象にもならないはずなのに、無名の女子高生の志和が言うから、七瀬の内心をかき乱してやまなかった。
場の空気を読んだかのように、ふと、イレは言った。
「ほら、夏は家の手伝いしなければならない。その後は受験勉強だ。悪いな」
京介が今度こそ、志和の手を引く。
「女子高生は普通、あなたの手伝いをしないものなんですよ。気持ちが悪い誤解されますよ」
辛辣な言葉に、教授は肩をすくめた。
「夏越志和、だっけか。また、会いたいな」
教授が言った言葉に、イレは振り返った。
「縁があったら、また会えるさ」
「ずいぶんと非科学的なこと言うんだな」
「けど、縁は存在する。お前が魂の実在を、機械計測で確信したように、私もそれを実体験で確信している」
イレは実直な科学者だ。聞かれたことは丁寧に答えてしまう。
京介は強引にイレを連れて、去っていった。
※
彼らが去ったあとには、唸り続ける機械が残された。
どさり、と荒谷教授は椅子に座りこんだ。そのまま顔を覆う。
七瀬は黙って、彼らの食事の跡を片付け始めた。内心では、怒りや嫉妬で混乱していることを表には出すまいと、唇をかんだ。
教授が顔をあげたのは、七瀬の唇から血が出てからだった。
「七瀬くん、彼らのことを調べなさい。仲良くなって、彼らのことを教えてくれ」
「やはり、彼女を雇いたいのですか」
悔しそうに彼を見た七瀬は、ぎょっと目を見開いた。
荒谷は涙を流していた。
「長年の研究がようやく実るときがきたんだ」
荒谷は先ほどまで熱心に書き込みをしていた設計図を、床に振り払った。代わりに計測器を机の中心に置くと、コードをPCに配線していく。
「この機械は体と魂の情報を登録している。特異なデータを検出した人間は特に、データを共有していることは知っているね」
七瀬はあいまいにうなづく。荒谷教授の協力者として働いていた准教授が逮捕されたことは彼女も知っていた。
七瀬に研究内容は共感できない。魂の実在を証明したとしてどうなのだと思ってしまう。それでも、教授の夢ならばとここまで協力してきた。逮捕された准教授に対しては、けほども興味がない。
「それがどうしたんです」
「六年前、特別なデータが採取できた。魂がいない人間がいたというんだ。ただ、再現ができなくて、機械の故障だと思ってきた」
機械のデータを見せられても、七瀬には判読できない。教授は嬉々として言った。
「彼女、夏越だっけ、そのデータと彼女の身体データと一致した。しかも今回も変なデータが再現された。これは大きいよ」
七瀬は首をひねる。
「何が変なのですか?」
「それを今から考える必要がある。大事なのは変数がわかったこと。君は本当に科学者の才能がないね」
荒谷教授は机の引き出しをひっかきまわして、使えるボールペンを引っ張り出した。コピー機がデータの印刷を吐き出した。
七瀬の顔ににじむ血を、彼は気にも留めない。
「どうして彼女の魂は数値が変わるのだろう。人格が変動することとなにか関係があるのかな」
白紙に考えを書き始めた彼は、もはや七瀬の存在を無視し始めた。いつもの研究が始まる合図だった。
ただ、その日に限っては悔しく、七瀬は声をかけた。
「夏越志和がいると、魂の計測値がズレるのですね。その理由が要さんの研究に大きな意味を持ちそうだと」
「そう。魂がどんな状況で変化するのか、解明できるかもしれない。夏越くんは人と違って、魂が一瞬で別物のように変質している。そう、あれはまるで」
「まるで魂が入れ替わっているみたいですね」
一瞬止まった荒谷教授は、白紙の書付に一行追加してから言った。
「意見ありがとう。集中したいからもう放っておいてくれないかな」
もはや選択の余地はない冷たい言葉に、七瀬は一礼して研究室を出た。そして手近にあった椅子を蹴った。
椅子は原型をなくして廊下まで飛んで行った。
ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる彼女は呟いた。
「うらやましい。ゆるせない」
聞こえているだろうに、荒谷教授は気にも留めなかった。
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