高校生編 オープンキャンパス 破 2

 京介は頭を掻いて、志和を追った。

 長く、嫌になるほど明るい廊下だった。青年たちは足早に歩いている。京介たちが彼らに追いついたのは、渡り廊下を抜けて研究室に立ち止まってからだった。

 京介は嫌々な内心を隠して、七瀬紗耶香に声をかけた。

「七瀬、見かけたからきたぜ。俺らオープンキャンパスで来たんだ」

「湯本京介に夏越志和ですね。帰れ」

 はっきりとした拒絶の言葉を少女は吐いた。

 長身な少女だった。教室で見るのとは違い、彼女の髪はつやつやと輝き、少女の頬はバラ色に染まっている。薄ピンク色にまとめられた化粧を施した顔は、学校で見る仏頂面とは大違いだ。

 つやつやの黒髪を、七瀬はかきあげた。

「綾瀬に言われて監視しに来たのでしょう。何の権利があって、あまり仲良くもない同級生に咎められなきゃならないのですか」

「俺たち、何も言ってねえよ」

 京介は、心底面倒くさそうな顔だ。

 隣で志和は、困った表情を浮かべている。

「わたしたちは通りかかっただけ。さっきまで慶長教授のオープンキャンパスの見学会に参加していたよ」

「慶長教授? ああ、あの人ですか。時間を無駄にしましたね。要さんの手柄をかすめ取る寄生虫の話を聞くなんて」

 かなめさん? 首をかしげる志和と違い、京介は顔をしかめた。

「荒谷教授と親しいんだな」

 京介の言葉に、志和は初めて合点が言ったようだった。確かに、プログラムに書かれた彼の名前は「荒谷要」だった。

 彼女は、下の名前を親しげに呼ぶ理由にまで、考えが至っていない。京介は幼なじみの鈍感さを再確認していた。

 頼まれたからと、彼はなおも言う。

「そういうところが、心配されるんじゃねえか」

「七瀬さんのご家族には、申し訳ないと思っていますよ」

 涼やかな青年の声が割って入った。

 彼は三十台ほどの、清潔感のある若手研究者だった。女子高生と親密そうに話し、事前に聞いていた話にはそぐわない、優しそうな顔立ちをしていた。

 長いまつ毛を、荒谷は伏せる。

「ただ、彼女は優秀ですから。研究に必要です。手放せません」

 七瀬は顔を赤らめた。

 男は自分の研究室だと、目の前のドアを開けた。

 研究室は清潔だった。本はすべて整然と本棚に収められており、機材のコードはきれいにまとめられている。動線上に物はないのに、椅子と机が多い部屋だった。

「昼食はまだですか? もしよければ、一緒に食べましょう。それで、少し彼女のご家族に口添え頂きたいのです。彼女の将来のためにがんばっているだけなのだと」

 そう、荒谷は京介たちを誘った。

 京介は断ろうと思った。先ほどまで、志和とは学食に言こうと話していた。それに、なぜだか、目の前の男を不愉快に思えて仕方なかった。

 なぜ、京介がそう思うのか。七瀬のような関係を作っている彼に対し、京介は一切の信用を置けなかったからだった。

 京介の考えを、鈍感な志和は、いつものように気づかない。

 彼女は返事を、腹の音で返した。



「お食事お持ちしました、要さん。来月分の学食の手配も済ませておきました。あと、彼らには同じものをお持ちしています。経費は既に経理に連絡済みです」

 七瀬は手際よく、持ち帰り用の学食を彼らの前に置いた。温かな湯気を放つそれらは、彼女の手際の良さを見せていた。

 志和が戦慄したように、京介に囁く。

「わたしもこういうのできたほうが良いかな」

「お前はそのままで良い。気が利くお前なんて、志和じゃないだろ」

 言葉に安心した様子の志和に対し、京介は警戒の色を強めていた。

 七瀬がしていることは研究の内容とは、もっと言えば、学術とは離れていた。手際の良さから言えば、ずっとそう言ったことをしてきたのだろう。

 京介は荒谷教授と向き直った。

「七瀬は、あなたの研究にどう必要なんです?」

「すべてだね。備品の手配から予算管理、こういった生きるために必要な物品の調達までお願いしているよ」

「どんな研究を?」

「精神について。難しく言えば、量子脳力学。魂の実在の証明って言えばわかりやすいかな?」

 志和が会話に割って入る。

「慶長教授との論文、万能細胞の培養方法と脳細胞の解析について、拝読しました。以前までと段違いの効率の培養方法、感動してます」

「ありがとう。よく勉強しているね。でも、そういう、慶長教授と書くようなのは、僕のメイン研究の副産物なんだ。叶うなら、僕はずっとメイン研究をしていたいよ」

 メイン研究とは、もちろん、魂についての研究だと、彼は言った。

 京介は相槌も打たず、学食のハンバーグをはしで切り分けた。ケチャップがたっぷりかかったそれは京介の口にあった。

 志和は微妙な表情を浮かべている。思っていることを口に出そうか、迷った表情だ。

 文系に進むことを決めており、もう二度と荒谷教授と会わない京介が、代わりに言及した。

「だいぶ夢見がちな研究のようですが、七瀬の将来のためになるんですか。研究が無駄になれば、経歴もすべて無駄になることじゃないでしょうか」

 せっせと教授の世話を焼いていた七瀬のにらみつける目が、京介を焦がした。

 京介は気にも留めない。夏越家の視線のほうがよほど迫力があると、頭の隅で考えた。

 荒谷教授も、気にもしていないようだった。

「研究とはそういうものさ。無駄かもしれない。研究成果が無に帰すかもしれない。それでも何かが残ると信じている」

「七瀬の人生には、何が残るんですか」

「僕が知ったことではないね」

 きっぱりと教授は言った。

「無駄になるかならないか、確実なものなんて、この世にないのさ。だから、少なくとも自分の意思で、決めていかなきゃならない。人に口出しする余裕なんて僕にはない」

 京介は思わず、七瀬の様子を伺った。

 彼女は平然と、その言葉を受け止めていた。

「私は荒谷教授についていきます。研究が人のためになるとか、ならないとか関係ありません。彼は世界に必要だと思ったなら、きっとそうなのでしょう」

 そう、彼女はきっぱりと言った。

 志和の持つ箸からご飯が落ちる。告白のように思ったらしく、彼女の顔が赤らんでいく。

 京介は、嫌そうに手を振った。

「勝手にしろよ。俺たちは家族じゃねえし、そこまで考えているやつを止める理由もない」

 教授と七瀬は、他人を拒絶する微笑みを浮かべた。

 志和は言った。

「ただ、家族が心配してますから、説得の努力をしてみたらどうですか」

「夏越家は仲良し一家だからそう思うのです。私の家族にそれをしても無駄だと思いますよ」

 七瀬の言葉に、志和はうなだれた。夏越家の特殊さを知らなければ、彼らはお互いのことを知り尽くした仲の良い家族に見えることを、彼女は自覚している。

 夏越家の彼女に、一般的なアドバイスは難しい。なぜなら、今だって仲の良い家族の一員が、志和の視界に興味を示していた。

 志和にしかわからない声が、脳裏で彼女に囁いた。

『これが細胞屋、万能細胞運用エキスパートの荒谷要教授か』

 研究者の兄、夏越イレが、志和の体を通して、彼を観察していた。

 妹は兄に聞く。

『イレ兄さん、この人とは学会で会っているんじゃないの』

『会ってはいるが、慶長教授のアシスタントだと思っていた。ただ、いろいろ合点はいくな』

 イレはオープンキャンパスの当初から、志和たちと「同行」していた。解説を入れていたのを京介も知っており、彼らに東生大を勧めたのも彼だった。

『一度こいつとは話す必要があるな』

「荒谷教授、ここまで覚悟した七瀬さんに、関係ないはあんまりだものね」

 兄との会話の途中、志和は思わず言葉を漏らす。

 彼女の言葉を、荒谷は平然と受け止めた。

「うん。ここまで信じてもらっているんだ。信頼には答えなきゃ男じゃないよね」

 志和の脳内では、イレが同意している。京介も頷いて見せた。

 荒谷は胸を張った。

「やった結果は絶対に周囲に見せるよ僕は。そうしなきゃ研究している意味がない。だから僕は、著名人である慶長教授の名前を借りて、論文を発表していたり、あと、細々したことをやっていたりするのさ」

 まあ、まだ名誉を得るには僕は若すぎるかなと、おどけて謙遜してみせる彼を、イレは厳しく見つめていた。

 志和の薄茶色の目に、深緑色が横切る。

『志和、気をつけろよ。能力が高いやつが控えめだった試しはない。現在の立ち位置に甘んじている何かがあるはずだ。お前と京介は利用されるなよ』

 志和が京介に囁く前に、教授が小さながらくたを指さした。

「実際、研究は進んでいてね。いくつか、冗談みたいな機械を作れているんだよ」

 彼は指さしたそれを、魂を数える装置だと言った。

 魂の数を数える装置は、真っ白な四角だった。手のひらサイズのそれは断続的に振動音を立てている。

 モニターに表示されている数は先ほどから「4.3」だった。

 あれ、と荒谷は言った。

「部屋の魂をカウントして表示するんだ。いつもは整数だし、もっと精度が良いはずなんだけど」

 首を傾げる教授に見えないように、志和は肩を震わせた。

 この部屋で魂を複数持っている人物は、一人だけ。

『まさか。おもちゃでのはったりだ』

 志和の脳内で、兄の否定する声がする。

「昨日もメンテナンスしたし、どうしたんだろう。魂のカウント数が変わるなんて初めてだ」

 荒谷教授は機械を点検し始める。その顔は楽しそうで、研究を行うときのイレの顔を彷彿とさせた。彼は嬉々として言った。

「部屋に幽霊でもいるのか、それとも、機械由来のバグなのか。ちょっと君たち、研究に協力してくれないかな。一瞬で済むから」

 京介は慌てて席を立った。

「冗談じゃない。俺たちは他に予定があるんだ」

「良いだろう。どうせ、君らはこの大学に進学しない予定だろう。オープンキャンパスを続ける必要はないだろう」

 京介と志和は、アイコンタクトを交わした。志和ですら、感づいていた。

 彼らは、仲良くなったきっかけの事件を思い出していた。彼も魂の研究を行っていると言っていた。目の前の男とは違う研究者でも、優秀な科学者が他人の論文を確認していないはずもない。

 京介は記憶力に優れている。凶行を起こす前の不審者の顔が、目の前の教授の顔と重なって見えた。

 今、夏越が正体を暴かれようとしていると、彼らは直感してしまった。

「帰ります」

 志和の手を引く京介の前に、七瀬が立ちふさがった。

「別に痛くない治験ですよ。手伝って」

「断る。怪しすぎる」

 押し問答する彼らの背後で、ピピっと音がした。

 振り向く京介の眼前に、白い銃型の測定装置が突きつけられていた。

 あの機械だ。鳥肌を立てる京介に対し、荒谷教授は不思議そうだった。

「君の魂は正常値だね。強いて言うなら、他人よりも精神的な強度が高い。きっと君につらいことがあっても、へこたれることは少ないと思うよ」

 京介は話も聞かず、志和を見た。

 志和の目の色は薄茶色と深緑色が交互に現れている。

 夏越イレが志和の体を通して様子を見守っていることを確認した京介は、教授に向き直った。


 目の前の教授に気づかれないように、魂の数をごまかさなければならない。

 教授は計測器を志和に向けようとしている。

 計測器の引き金を引くのに、一分もかからない。

 計測終了までに、夏越志和は魂の特性を隠さなければならない。


 京介は目の前の難題を解くため、志和の手を離した。それが、彼がこの状況を切り抜けるのに必要なことだった。

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