高校生編 オープンキャンパス 破 1
「知こそ力。ならばこの研究室は、世界でも有数の力を持つと言えるだろう」
研究室長だという慶長室長の説明は、いささか芝居がかりすぎていた。京介はあまり興味の持てない専門知識と、大げさな演説にうんざりしつつあった。
オープンキャンパスにも関わらず、最前列では熱心な学生がメモを取っている。
志和は、首を傾げていた。理解できないからではない。理解できるからこそ、不思議だった。
慶長教授の説明は、確かに専門知識ではある。ただ、有名になった生命理工分野ではなく、実験機材や操作マニュアル確立方法等の、工学系について説明を続けることが、彼女に疑問を覚えさせる。
「前評判とは違って、案外、工学系ゼミなのかな。量子脳理論の話もないし」
志和は、急速に興味を失っていっていた。真面目にメモを取る京介に、彼女は囁いた。
「この後、学食って使っていいのかな?」
京介がカリキュラムを取り出して、志和の質問に答えようとしたときだった。
慶長教授が、京介をまっすぐに指さした。
「さて、ここまでで質疑応答がある人はいるかい? そこのパンフレットを持った君とかどうだい」
京介は集まった注目に驚いて顔をあげた。
最前列の熱心な学生ではなく、最後尾の、しかも文系志望者に配布されたパンフレットを取り出している学生を、質問に指名する意味が、京介にはわからなかった。
「俺ですか?」
「そうだ。その様子では、質問はなさそうだね?」
京介は戸惑っていた。
彼に質問は特にない。強いて言うならば、この後の昼休憩の時間で学食を利用していいか、代わりに聞いてやろうと思うくらいだ。
「はい。この後、学食を使っていいかは気になりますが」
「良い質問だね、もちろん使っていいよ」
起きる笑い声の向こうで、慶長教授は不自然なほど、安心した顔をしていた。
「他に質問がある人は? 彼の横の彼女はどうかな?」
不自然な態度に、手を上げた数人が顔を見合わせている。
全員のなかで二番目に興味の薄い反応を示していた志和は、驚きながら口を開いた。
「そうですね、では」
「質問がなければ、特に話さなくても良いですよ」
「三月に発表された論文、拝読いたしました。斬新なアプローチによって、細胞培養技術を百年分向上させ、脳細胞の解析が進んだとか。魂の在り処についての考察、大変興味深かったです。その根幹を成した引用論文について、どうしてこれを見つけられたのかをお伺いしたいです」
慶長教授の動きが止まった。
最前列の熱心な学生のうち、何人かの手が下がる。彼らは有名な、かの論文について、質問を行おうとしていた何人かだった。
志和が言葉を続ける。
「古い論文だとのことで、よく見つけたと話題になったそうですが。執筆の秘話やインスピレーションが沸いた瞬間について、お伺いしたいです」
質問を終えた志和は、すべて兄の受け売りだと、京介に囁いた。
顔をしかめる教授に意に介さない様子は、彼女が大家族の末っ子で、ずぶとく育ったからだと京介は密かに思う。
簡単な質問に思えた。どこからそれを探してきたのなんて、作者が答えられない訳がないはずだった。
目の前の慶長教授は、白衣の袖口をいじって黙っている。
志和が驚いた顔をする。
早口で言い訳するように彼は言う。
「僕は工学の知識を担当しているから」
少しの間黙り、言葉を絞り出す。それは、懺悔のような響きを持っていた。
「共著の荒谷くんなら、完璧に答えられる」
ざわりと、オープンキャンパスの学生たちがざわめいた。
「慶長教授の執筆じゃなかったか?」「もっと説明がほしいな」
志和はただ、お礼を言って会話を打ち切った。しかし、それを許さない学生たちが、追加の質疑応答を求め、慶長教授はしどろもどろの状況だった。
こうなるから、やる気のなさそうな京介と志和を、質疑応答に指名したのだろう。まさか、そのうちの一人が、夏越家だとも知らずに。
彼女の顔には奇妙な同情が浮かんでいた。他人の顔で話すときに、知識をつっこまれたときのいたたまれなさを、志和は身をもって知っていた。
京介が志和の腕をそっと引いた。
志和は応じて、見学の集団から少しだけ離れた場所に移動する。
「いや、共著ってことになっているなら、あれはだめだって。あんなに偉そうにしてただよ」
悲しそうな志和に、京介は意外な思いをしていた。
「お前のことだから結果が大事、過程と実行者は関係ない、って言うかと思った」
「わたしをなんだと思っているの」
笑う志和に、お前の家族たちはそんな考えなんじゃないかと内心で付け加える。
研究者の兄は夏越家の体を使って、魂は徹夜で過ごしている。論文を書いている体はその都度異なっている。彼らが頭角を現した論文なんかは、集中力が長時間続くからと、最も若い志和の体を使っていたはずだ。
研究者でなくとも、レルは作曲の大詰めに何人もの家族の体を使い、他の家族たちも似たようなものだった。
彼らは自分たちの仕事が、世界に良い結果をもたらされればよい、と公言してはばからない。
イレいわく、自明の結論が自分たちの魂を通って世の中にもたらされるのであって、究極的には自分でなくともよいのだと言う。レルは、自分という魂で、最高の楽曲ができれば、そのとき使っている体が誰でも問題ない、と宣言している。
京介にはそれが、彼らが狂人であるが故なのか、夏越であるせいで至った結論なのか判別できなかった。
結果にしか興味のない人物にとっては、慶長教授の論文が誰に書かれようと、それが慶長教授の論文という結果で、ある程度納得する。
この場では、少数派の考え方だった。
「このサーバー群は私の予算取得によって設置されました。構築は私の知己にお願いしています。シミュレーションは国家規模の予測にも使われており、私の許可は一か月後でないと出せません」
「例の論文との関係は?」
「関係は、ないです」
よほど鈍感な人物以外は、落胆した。京介たち二人は、ひそひそと相談を続けている。
「変になっちゃったね」
「自分の手柄にするなら、調べとけって話だろ」
「慶長教授が、あの論文のメイン著者のはず」
「明らかに、荒谷教授が本当の作者みたいだな」
志和と京介は、同じ人物の言葉を思い浮かべた。研究者の夏越イレから聞く大学事情に、論文作者の話はよくでてきていた。
「替え玉執筆か」
大学の人間関係や、力関係によって、論文を目下の人間に書かせることは珍しくないのだと、彼は言っていた。志和は彼から悔しそうに教えられた論文を思い浮かべた。
『査読機関の異例の短さ、結果の美しさ。どれをとっても、現代研究の最高峰だ。今からでも、俺がこれ書いたことにならないか』そう、イレは言っていた。
「でもなんで? 最高の論文なんでしょ。あの論文を書けるなら、どこ行っても通用する。手柄を取られる場所に居続ける必要ないんじゃないの」
高校生の志和と京介には、想像もつかない世界だった。
冷めたのは彼らだけではなかった。何人もの受験生が聞き流す体制に入っていた。片足立ちやパンフレットに目を落とす。
焦った様子で、慶長教授は高校生たちを見渡した。
「聞いていますか? 聞いていませんね、しまったな。ゼミ希望人数も補助金取得に関わってくるのにね」
小声というには大きすぎる内情の暴露に、皆が顔をしかめる。
爪を噛む彼が後ろを向いて、数秒後、彼は良い手を思いついたと言いたげに手を広げた。
「仕方ありません! 勤勉なあなた方に、我が研究室の秘奥を見せましょう!」
「秘奥というと、なんかアレに聞こえるよね」
「志和、うるさい。この思春期が」
京介たちのようにこそこそ話す学生たちを連れて、慶長教授はサーバー室のわきに備えつけられた扉を開けた。
「それではオープンセサミ。ただし見たことは内密に」
思わず京介たちは目をつぶる。
とてもそこは明るく、清潔な部屋だった。
十畳ほどの部屋には、壁沿いに透明なチューブが無数に張られていた。チューブは清潔な液体が流されていて、10cmほどの間隔で置かれた網目には何かが引っかかっている。
チューブは右からだんだんと太くなっているが、一番太い左のチューブは空っぽだ。水だけがごうごうと流されている。
「私、慶長は、機械を使った細胞の培養を得意とする研究者ですからね! これを見れば一目瞭然でしょうが、偉大な功績をご説明しましょう」
そうして口から出る言葉はしっかりとした知識に基づいた言葉だった。コンタミと呼ばれる不純物をいかに付着させないかを他研究所が苦心しているところ、あえてコンタミを起こして不純物を取り込み、そして、いかに除去するかを考えるほうが重要だと気がついたこと。
ある一定の外界の刺激があるほうが、細胞が培養しやすいことに気が付き、この装置を作り上げたのだと、彼は言った。
「あなた方がそのドアからここに入ってきた。何千何万の細菌が一緒にこのチューブに触れたことでしょう。それも糧になる画期的な方法。それが私の本領です」
受験生たちの手が上がる。
「細胞の培養ができやすくなることはわかりました。それはどう役に立つのですか?」
「つまりね、実験の難易度が格段に下がったんだよ。貴重品のように検体を扱う必要もない。いくらでも複製できるから」
「何の実験に使えるんですか?」
「全部さ。全部の実験が恩恵を受ける。これぞブレイクスルー!」
「慶長教授は今、何の実験をしているのですか。何のためにこの技術を作ったのですか」
途端に彼は口を閉じて、目を泳がせた。彼はぶつぶつと文句をつぶやいているようだった。
「なんと言いますか、それはその時々で違います」
全員が納得しない表情を見せた。慶長教授は慌てて付け加える。
「今は荒谷さんと共同研究でこの技術を存分に使ってます。まだ論文になっていないので公表できないのです」
部屋には何個も出入り口があった。おそらく一番使用する部屋であるために、出入りが簡単になっているのであろう。
開けっ放しになっている出入り口もあり、どこかの廊下が見えていた。廊下に出て歩いていればどこかで階段か地図に行きつくはずだった。
志和はそちらをちらちらと見ながら言った。
「とりあえずこの大学には、問題あるんだね。そういう場所にわざわざ飛び込むのもどうかな」
「まあ、オープンキャンパスでわかってよかったな」
慰めの言葉を言いながら、じゃあどこに行こうかと入試情報を開く京介は、いつものような淡々とした友人だった。
ふと、志和は声をかける。
「京介はがっかりしないんだね」
「何を落胆することがある?」
志和はそっと思う。自分は傷ついているらしい。
彼女は大学進学のその先、将来のために、この大学に決める気持ちでいた。それができなくなったことに、少なからず傷ついている。
どうして、京介は同じ気持ちじゃないんだろう?
志和は不思議でならなかった。ふと、彼女は視線を感じて顔をあげる。
慶長教授には聞こえない音量と距離ではあるが、悪口を言っている身だ。できる限り控えめに振り返る。
どこかの廊下に続くドアの向こう、それほど遠くない距離に、たった今、目をそらした白衣を着た青年がいた。
柔和な微笑みを浮かべた、短髪の青年だった。涼やかな目元は長いまつ毛に飾られている。白衣ではなく私服で駅前にいることが似合う男だ。
「あの人、見たことある」
志和のつぶやきに、京介も振り返る。
彼が顔をしかめたのは、青年のせいではない。青年の後ろ姿を追う白衣の少女を見たからだった。
「男は知らんが、後ろのやつは七瀬だ」
本当に大学に入り浸っているらしく、話す彼らは親しげだった。七瀬の手には大量の学術書らしき古い本が抱えられていて、青年は手ぶらだ。
「本当に助手気取ってんだな」
観察する京介の横で、志和は慶長教授の様子を伺った。
オープンキャンパスの見学は時間制で、特に点呼も名簿も取っていない。
「後ついてって見ようよ」
綾瀬のお願いを志和は覚えていた。京介は嫌な顔をする。
「あれ、面倒くさそうだぜ」
遠目から見ても、七瀬は青年とほとんど密着して歩いている。健全な距離とは言い難かった。
「だからだよ」
志和は京介に止められないうちに、見学の列から抜け出した。
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