高校生編 オープンキャンパス 序 1

 京介は恋をしたことがないと、自分では思っている。恋に興味をあったこともない。だから、なぜ同級生がこれほどまでに騒ぎ立てるのか、少しも理解できなかった。

「京介くん、教室で夏越さんに告白したって?」

「お前ら仲良いもんな。幼なじみだっけ、結果どうだった?」

「まず告白してねえ。軽い口喧嘩だあれは」

 京介は同級生のからかいをあしらいながら、帰りたい気分で剣道場のドアを開いた。

 テストが終わった翌週、部活のない月曜日に部活棟を訪れたのは、明日からの部活初めに備えて、自分に貸し出されている道具の整備をするためだった。

 今頃、教室では志和がからかわれているだろう。京介は平和な光景に、面倒に感じて置いてきた。

 志和も恋というものがわからない。京介と同じ反応を周囲に返していた。

 そのからかいがいのなさから、同級生から解放されるのに、時間はかからないだろう。彼女も同じ部活のため、じき部活棟にやってくる。

 それまでに、あいつの分の道具整備はやっといてやろう。京介は考えながら、からかおうとする同級生に、デコピンを放った。

 熱気のこもった部活棟は、木と道具の独特の匂いがこもっている。少ない窓から空気を入れ替えようと、大型扇風機がうなりをあげている。

 夏越家を知らない同級生たちに、志和に起こったことを知る由はない。あれは告白ではない。けんかと仲直りだと、表向きの説明をどれだけ話しても、人は自分の取りたいようにしか物事をとらえない。

 でも、あそこでああ言わなかったら、志和の魂が消えていたから、仕方ねえな。京介は何度目かの結論を出して、自分と志和の竹刀の手入れを続けた。

「あれ、副部長一人か。志和ちゃんが一緒じゃないの珍しいね。付き合い始めって、やっぱ恥ずかしいもの?」

 京介はうざったそうに、声をかける女子生徒を見た。

「同級生に向ける目じゃないでしょ」

「状況と話題を考えろ。俺と志和は付き合っていない」

 くすくすと笑うのは、剣道部部長の綾瀬だ。

「ごめん、便乗した。湯本と夏越がそんなんじゃないのは知ってるよ」

 彼女はさっぱりと答えて、京介の前に立った。彼女は何か言いたげな顔だ。なんとなく、京介は嫌な予感がした。

「なに?」

「志和くんに頼みがあるんだけど」

「七瀬関係か?」

「そう、紗耶香の話」

 京介は、嫌そうにしかめ面をした。

 人望あふれ、成績も良い彼女が、わがままを言うことは一つしかなかった。

 七瀬紗耶香。綾瀬と名字の違う双子の妹。両親が離婚し、別々に引き取られたのだという。

 姉の綾瀬と同じ部活に所属しているのにも関わらず、ほとんど部活に参加しない、それどころか、学校にもほとんど来ない問題児。綾瀬は一方的に気にかけ、七瀬が邪険にする関係であることは有名だった。

 綾瀬が、心配そうに遠くを見た。

「紗耶香ってば、東生大の理工学部に行きたいらしいの」

 東京生物理工大学、略称東生大は、地元の名門大学だ。名前の通り、生物理工学部が有名で、人体の細胞や病気に対し、盛んに研究が行われている国公立大学だ。総合大学であり、最近でも、文学部から国内文学賞の受賞者が出たと話題にもなっている。

 高い目標ではあるが、目指す価値はある、有名な大学だった。なぜ、綾瀬が顔をしかめているのか、京介にはわからなかった。

「良いじゃねえか。七瀬の成績は知らねえけど」

「卒業は出席日数が危ういけど、十分合格できる成績よ」

 綾瀬はため息をついた。

 高校生にも単位があり、欠席を重ねれば落第する。ほぼ無欠席な京介には関係のない話だ。だが、兄妹関係でよく欠席をする志和に、話は聞いている。

 綾瀬は嘆く。

「でも、東生大学にだけは行ってほしくないの」

 奇妙な要望だった。名門ルートに進もうとする妹を、姉が阻もうとする。その意味は京介にはわからない。

 家庭の闇が深いなら巻き込まれたくないと、京介は一般論を口にした。

「誰だって、自分自身のことは自由だからな。どれだけ周囲が言おうと、しょせん他人だ」

「でも家族よ? 家族が、心配だと思うのは、いけないことかしら」

 京介は一瞬言葉に詰まった。

 彼は家族全員が、お互いのことを同一視している家庭があることを知っている。彼らは、志和の進路に並々ならぬ関心を持っている。口出しはするし、それぞれの勧める進路をプレゼンすることも、それに妹の幼なじみを巻き込むことも、一度や二度ではなかった。それでも、彼らは尋常でなく仲が良い。

 少し考えて、京介は言った。

「もったいないと思うのは良い。忠告も注意も必要なときもあるだろうさ。強制する一線だけ、超えなければ良いじゃねえか」

 超えてほしくないと思うのは、理想論であるけれど。京介は心のなかで付け加えた。夏越家は悪事を働こうとすると、折檻を加える。強制と言えば、強制だった。

 部活動が休みであるにも関わらず、剣道場に人が集まりつつあった。皆、いやに静かに作業しており、綾瀬たちの会話に耳を傾けていることは明らかだった。

 京介は道具を片付けて、立ち上がった。

「それで、俺にお前は何を頼んでいるんだ」

「うん。東生大のオープンキャンパスに行くとき、紗耶香も連れて行ってほしいの。それで、やばいところあるから、それを教えてあげてほしい」

 京介は首を傾げた。

「夏越さんも志望校に入れているってクラスで言ってたから、湯本くんも一緒に、オープンキャンパス行くでしょ。今週の土曜日」

「あー、そうだったか」

 適当に決めた志望校を思い出し、京介は得心したように頷いた。

 東生大学は京介と夏越家の住むマンションから、徒歩圏内にある。iPS細胞こと、万能細胞の利用技術を発展させている生命理工学部を筆頭に人気があると、夏越の兄の一人がプレゼンし、その宣伝文句にミーハーな志和も興味を持っていた。

 京介に将来の明確な目標はなく、志和と同じ志望校を登録していることは、学年でも有名な話だった。

「さすが、彼女と同じ大学に行くんだね。湯本くんももったいないことするね。もっと頑張って上を目指すとかないの?」

「付き合っていないし、俺はあまり、そんな戦闘狂みたいな目標はない。くだらねえこと言うなら、この話はここまでだ」

「待って待って!」

 京介は歩みを止めない。道具の整備も済んだことだし、今日も夏越家に遊びに行ってもいいかもしれない。

 綾瀬は血相を変えて追いすがった。

「ほら、夏越さんと紗耶香、そこそこ話すじゃない。夏越さんに頼んでよ」

「七瀬に頼まれたらまだしも、お前に言われてもな」

 綾瀬はぐっと言葉に詰まる。

「もちろん、オープンキャンパスには行くけど、引率される歳でもないだろ。」

「そうだけど」

「心配しすぎだ。行きたいなら行かせてやれよ」

 綾瀬はためらったあと、京介をぐっと引っ張った。

 靴を履こうとかがんでいた京介の、抗議しようとした言葉を静止して、綾瀬は囁く。

「東生大には変な教授がいるのよ」

「はあ?」

 変わっていない教授なんていないだろう。京介は自分の知る教授を思い浮かべる。家族の体を渡り歩いてでも、不眠不休で働き続ける夏越の兄、夏越イレ。

 実際に知っている人外のサイエンティストを思い出す京介とは違って、綾瀬は深刻そうだった。

「違法な人体実験しているらしいの」

「はあ」

「なんか、審査の人の弱み握って、補助金を不正受給しているらしいし」

「へえ」

「紗耶香ってば、しょっちゅうその研究室に出入りして、助手と呼ばれているの。無給で無休でよ。しかもそれが高校を欠席する理由なの。怪しいでしょ!」

 与太話だった。そう判断した京介は、今度こそ靴を履いて、剣道場の出入り口で伸びをした。

 女子高生に自分の研究室に関わらせる教授は、大問題なのはわかる。だが、進路のための根回しのために必要な行動なのかもしれない。

 七瀬紗耶香の性格の悪さと反比例した優秀さは、誰もが認めるところだった。彼女が、、ただやりこめられる光景は想像できなかった。

 変なことをまだ言い募っている同級生を前に、疲れた京介は、無性に志和に会いたくなった。いや、俺は何でそう思ったんだ?

 京介の思考がまとまる前に、綾瀬が大声をあげた。

「あ、夏越さん」

 部活棟に入ろうとしていた志和が、驚いたように立ち止まった。志和を中心として、わあわあと同級生たちが集まっている。テスト終わりの暇な時間に、彼女の話は十分に面白かったらしい。

 彼らを歯牙にもかけず、綾瀬は志和の手を取った。色っぽい光景に、周囲が色めき立つ。

「お願いがあるんだけど」

「なあに」

 答える志和は何も考えていない顔だ。京介は歯ぎしりをする。

「綾瀬、近い。気持ちが悪い」

「それは志和ちゃんが決めることでしょ」「百合に挟まる男」「この場合は幼なじみNTR?」

「今、クソみたいな状況分析したのは誰だ?!」

 良い反応を返す京介は、格好の騒ぎの的だった。

 綾瀬は、うるさい男が近づく前に言う。

「私の妹、七瀬は、東生大に入り浸っているの。東生大のオープンキャンパスに行ったとき、見かけたら声かけてくれない?」

「うん、いいよ」

 家族や京介にするような即答だった。京介は頭を抱えた。志和はこの頼みについて、深く考えていない。頼んできた理由すら聞かないのが、その証拠だった。

 こうなるから、京介は、綾瀬が志和に直接頼んでほしくなく、綾瀬は、京介に背景を事前に話していた。

 綾瀬は満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう! じゃあ、湯本くん、そういうことで」

 そう言うと、綾瀬は去って行った。残されたのは、能天気な顔で下校を促す志和と、思ったよりも簡単に収まった話に不満げな同級生たち、そして、頭を抱えたままの京介だった。

 志和の精神はかなり幼い。そのうえ、夏越家の特殊な状況下にあることで、自他の認識がズレてしまっていた。

 志和は他人に頼みごとをされると、二つ返事で引き受けてしまう。

 京介は、以前、志和についてどうしてなのか、聞いたことがある。

 人は他人が苦しむことは滅多に頼まないだろう。頼みごとを解決すれば恩義を感じるだろう。相手の喜ぶことをすれば、自分の喜ぶことをいつかしてくれるだろう。そう、考えているからだと、彼女は答えた。

 大丈夫、悪意の存在も知っているよ。よっぽどの理由があるんだろうね。だって、自分もそうだし。まあ、滅多にないことだから、二つ返事でも問題ないでしょう。

「それはお前だけの認識で、他人はそれぞれ違う考えを持っているって、何度教えてもお前は」

「京介もじゃない? 会ってから今まで、すごく親切じゃない」

「俺とお前は違う。人をなんだと思ってんだ」

 志和はむうと口を尖らせた。薄々気づいていたと、彼女は言う。

「やっぱり、家族以外は違うか」

「家族でも違うわ。お前、あれだけ革さんにやられても覚えないのか」

「ええっ、でも入れ替われば、わたしたち同じ人だよ」

 志和はきょとんとしていた。

 通学路の街路樹が伐採されている。実をつける樹種から、可能な限り、手間のかからない木に植え替えるらしい。放置された看板の「樹齢七十年相当」の文字はかすれていた。

 京介は、あれだけ折檻されても懲りない友人が学習する日はいつなのか、疑問に思った。

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