高校生編 中間テスト 2

 テストが始まっても、志和は憔悴した様子だった。地理は国語と違って、志和の得意科目だ。それにも関わらず、彼女のペンは遅々として進まない。

 京介は戸惑いながら、テストを終え、志和の机に駆け寄った。

 問題用紙も閉じず、志和の手は、一心不乱に革細工をしていた。

「志和、いや、革さん?」

 志和の体に入れ替わった革は、日本史の問題用紙の裏を指さした。そこには、地理のテスト中に、志和が書いたであろう地図が書かれていた。

 夏越家と京介が、何度もキャンプで訪れている山の地図だった。

 志和の筆跡で、たくさんのマークがついている。まるでそうしなければ生き残れない、とでもいうように、走り書きはどれも必死だった。

 妹の奇妙な努力を見ている革は、笑っていた。

「インスピレーションって大事だよね、最高だ、手が止められない」

 京介がよく知る志和の顔が、彼の知らない表情で、本人には出来ない速度で革を手繰る。糸と針が柔らかな革を躊躇なく刺した。

 京介は眉をぴくりとさせた。彼は、何が志和に起こっているのか、理解した。


 夏越家は家族に厳しい。彼らは夏越家の能力を使って悪事を働くと、苛烈なお仕置きを下す。特に、何度も叱責されたにも関わらず、テストへの不正を行った志和に、拷問じみた仕置きがされているのだと、京介は理解した。

 もう一度、彼は志和の書いた地図を見る。地図はどこかの山中で置き去りにされた人が、記憶から自分の現在地を割り出そうとするかのように、おびただしい目印のメモが書かれていた。

「革さんの体で山中から生還する」

「大正解! 国語のテスト中とこの休み時間、この後の日本史と世界史のテスト中だけね。しかも地理の時間中、インターバルまであげた。僕ってば優しいだろう」

 飴色の目は作品から目を離さない。革の手元では、波のような猛獣の像が作られている。

「今も見えている。力の限る走る視界にアドレナリン、最高のインスピレーションだ」

「あのキャンプ場は熊が出たから、今年いっぱい遊びに行けないと、志和が教えてくれました」

『うん、十日前に僕が志和に教えたんだ。だって、いたからね』

 夏越家は体を共有する一家だ。お互いの体の視界も音も、自由に見聞きすることができる。

 だから、革は自分の体で志和が、猛獣と自然に脅かされている光景を見ながら、夢中になって手を動かすことができた。

「自分が怪我しても、もう戻れない場所、例えば氷河に閉じ込められようが、インスピレーションを形にできる環境。僕は夏越家でよかったな」

 京介は志和の体の胸倉を掴み上げた。

 革と針が散らばり、彼はその日初めて、京介に視線が向けた。

 京介は夏越の目を、静かににらみつける。

「綿さん、やりすぎだろ」

 目の前のインスピレーションに狂う七男ではなく、京介は、優しい長女の名を呼んだ。

 飴色の目が驚いたように見開いて、瞬きした。

 次の瞬間、瞬く瞳は銀色に潤み、女性的な雰囲気を漂わせた。顔のパーツは変わらないはずなのに、表情からたおやかな空気を醸し出す。京介は胸倉を掴み直した。

 優雅な仕草で、彼の腕に手が添えられる。

「京介くん、これは家族の問題よ」

 長女はおだやかで優しい人物だ。基本放任主義で、日常生活で注意する姿を見せたことはない。しかし、夏越家の特性を悪用すると、彼女は最愛の家族に牙を向いた。

「志和は一線を越えたのよ。あれだけ怒ったのに」

「二時間も熊のいる樹海で一人きりだ。それじゃ志和が死んじまう」

「死んでも仕方ないと思っているわ」

 綿が断言したあと、彼女と入れ替わった革は肩をすくめた。

「俺なら余裕で生還できる。まあ、芸術家はどんな顔でも、作品で自分が証明できるから。体がなくなって、志和の体で生きていくことになってもまあ、かまわないさ」

 夏越家は、倫理観が常人のそれとは、大きく変質している。

 それは、国語のテストが家族のほぼ全員が解けないほどで、天才現代芸術家がようやく平均点以上を取得できる程度、というほどにねじ曲がっている。

 京介は言葉を探した。この頑固者の家族から、幼なじみを救わなければいけない。

 条件を頭のなかで数える。

 使えるのは言葉だけ。

 体を共有する彼らは、自分たちの体に頓着しない。

 夏越家の力を悪用することには敏感で、夏越家以外にはお人良しとも言える、善良な一家。

 自分に厳しく、他人に甘い。共有しているものが多すぎて、家族は自分と変わらないもので、ほぼ、自分だと認識している家族も少なくない。だから、家族には際限なく厳しくなる。

 そんな家族たちから、志和を守る方法を京介は考える。

 予鈴が鳴った。

 次の試験監督は、早めに始めたがる坂本先生だ。あと三分で志和を救う一言を絞り出さなければいけない。

 京介は口を開き、閉じた。顔は青く手は震えている。幼い頃から一緒にいる相手が、まさかこんな簡単にいなくなろうとするなんて、彼には想像したこともなかった。


 志和の顔で、綿が不思議そうにこちらを見つめている。

「そんなに、志和が惜しいのですか?」

 自分の何が良いのか、綿には心底不思議だった。

 京介はもう一度、口を開いた。彼女を救う一言を、言わなければ。


「志和がいなくなると、俺は寂しい」


 夏越は、自分に厳しく他人に優しい。念を押すように、京介は続ける。

「俺には志和が必要だ。だから、惜しい」

 志和の口から、あらまあ、と言葉が漏れた。

 教室のドアを開けて、坂本先生が赤面した。

「どういう状況だ?」

 京介は気がついた。目の前の志和の目の色は、薄茶色になっている。志和本人が入れ替わっていた。

 彼女は京介に胸倉を掴まれたまま、赤面している。そこにたおやかな雰囲気も、芸術家の熱意もない。

 京介は坂本先生に声をかけられて彼を見てから、一度、教室を見渡した。皆、京介と志和に注目し、口をぽかんと開けている。

 志和の机は、教室の最前列で廊下側、先生が教室に入るとき、最も注目される席にあった。そして、今、テストを持った教員という、学校生活でも有数の注目度を誇る先生が入ろうとした瞬間だった。

 京介はゆっくりと、胸倉を離す。

「なんとか、聞かなかったことにならねえか?」

 京介を冷やかす声が、教室中からあがった。



 世界史と日本史のテストが終わり、寄ってきたのは志和のほうだった。

 京介はふてくされたように、問題用紙をちぎっている。周囲がひそひそ笑う声が、彼にはうっとおしかった。

 志和は京介の前に立った。あたりが一瞬静まったのを怪訝そうにする姿は、綿の浮かべた不思議そうな表情に少し似ていた。

「テスト終わったし、コンビニ寄って帰ろう」

 志和が言ったのは、取り留めもない普通の一言だった。

 脱力したように、京介は顔を覆う。彼女は続けて言った。

「コンビニで何かおごる。すごく助かった。ありがとう」

「おう。もう、悪いことするなよ」

「約束する。そうしないと、今度こそ帰ってこれなくなっちゃう」

 彼女が言い添えた一言が、自分という存在が消えそうだったことを示していた。

 京介はそっと志和の顔を伺った。

 初夏の緑がゆれる窓の外を、薄茶色の目で見ている志和は、京介が初めて見る表情をしていた。くすぐったいような、驚いたような顔だった。単純に喜んでいるには見えないのに、不快とは思っていない顔だった。

 その表情の意味する感情について、京介も志和も、心当たりがなかった。

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