高校生編 中間テスト 1
湯本京介の胸が熱くなる。お前、やめろよ。そんな言葉が頭に浮かび、顔が赤くなっている自覚がある。
彼は、頭に十一歳の頃からの友人である夏越志和を、心から恥ずかしく思っていた。
中間テスト初回である国語は、初夏の暑さの中、行われていた。教室には、未だに空調が効いておらず、ほとんど全員が、制服のブレザーを脱いでいた。窓の外に見える緑の葉っぱも、じりじりと焼けているようだった。
暑さにうだった京介は、問題に集中できず、斜め前に座る志和の横顔を少しの間、見ていた。
中間テスト序盤の苦手科目にも関わらず、志和は涼しい顔をしていた。
彼女は今、答案用紙をすさまじい速度で記入しているようだった。問題文を読んだ瞬間に筆を走らせる様子は、数年来の付きあいの京介にとって、初めて見る姿だった。苦手な国語だとは、とても思えない。必勝方法を見つけたと自信の表情を見せていただけあると、京介は感心していた。
それも、つい、数秒前のことだ。
今、彼女は、右手の指の関節を屈伸させている。あ、と京介の口から声が漏れる。あれは、志和なら、しない癖だ。
あいつ、入れ替わりやがったな。
そもそも志和や夏越の家族たちには、学力テストほど簡単なものはない。他の家族の体に入れ替わって、ネット検索や過去問、参考書を見れば、自分の体に戻った後、答案を埋めるのも容易だ。
それをしていないのは、ひとえに、夏越家には「夏越の力で人に迷惑をかけてはいけない」というルールを、長女の綿が決めているからだった。
つい昨日の昼休みにも、志和は教室で呻いた。
「なんで入れ替わっちゃだめなんだろう。国語だけだからやらせてほしい」
「夏越家の力で迷惑をかけてはいけないって言われているだろ。テストで不正をすれば、その分、正当な評価をされていた人が被害を受ける」
「でも、小学生のときはわたしとしょっちゅう入れ替わってたし、はしゃいで目立ってたじゃん。京介も迷惑かけられたでしょ、レル兄さんとかに」
短い昼休みに回答の出せない愚痴を聞きたくなくて、京介は買っておいたチョコ菓子を、彼女の口に入れて黙らせた。
家族のルールの変化の理由は、京介にはわからない。しかし、志和が国語が解けない理由は、彼にも察せられた。
十体以上の体を共有する夏越家で、常人の精神性や、通常の文脈を取ることなんて、容易でないはずなのだ。主語が目まぐるしく入れ替わる生活のなかで、通常の文章を書くというのは、志和にとって知らない生物の活動を一から観察して、文章にするのにも似ていた。
志和はその、絶望的な他者認識の差異に無自覚だった。
彼女は勝手に京介の、お菓子を食べ尽くした。
「なんでわたし、国語だけできないのかな?」
「さあ。」
京介は指摘しない。志和は何も気にせず、志和らしくあれば良いと、京介は思っていた。
特異性にも関わらず、夏越家の面々は家庭ルールを作って自粛しようと試みる、気が良い人ばかりだ。志和を含め全員、悪事を働こうとは思わない人たちだ。
学校を卒業するまでは、国語に頭を悩ませながらも家族ルールを守って、暗記問題で点数を稼ぐ真っ当さを持っていると、京介は志和を信頼していた。
裏切られた思いで、京介は志和の背中を見つめていた。
チャイムが鳴る。国語のテストが終わった直後、詰め寄ってきた京介の姿に、「志和」は笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、京介。なんか面白い話あった? 高三にもなると、勉強ばっかかな?」
「あなたの妹に聞いてくださいよ、革さん」
夏越家で唯一国語が得意な七男の「夏越革」は、志和の顔で忍び笑いを漏らした。
志和の必勝法は単純だ。国語が得意な家族に、テストを代わりに解いてもらう。替え玉受験だ。
「そこまで切羽詰まってる点数でもない癖に、俺の妹はやりすぎだね」
京介の言葉に、革は相づちを打つ。手元では、折り紙のように革を折れていく。
「そうだね。理由までは教えてくれなかったけど、国語の成績をとにかく良くしたいんだって。きっと高三で何かしなきゃって、焦っているんだろうね」
「そこまでわかって、なんで、志和を止めてくれなかったんですか。承諾しなきゃ入れ替われないのでしょう。革さんが止めてくださいよ」
「俺はやってみれば良いと思ったのさ。それに、利害も一致している」
革の言葉と共に、予鈴が鳴った。休憩時間が終わる。あと五分で、地理の中間テストだ。
「国語のテストが終わったから、妹に入れ替わるね。ただ、次の地理のテストが終わったあとの休み時間と、その後の世界史と日本史のテストでも入れ替わるから、雑談するときには気をつけてね」
「別に、いつ入れ替わりでも良いですけど。変な入れ替わり方ですね」
「それが俺と志和との契約だから。やりたいこと的に、これがベストスケジュール」
革は京介に出来上がった奇妙な革細工を手渡した。
何重も螺旋を描くそれは、何の役に立つものでないのに、なぜか、必要だと感じさせて、人目を集めて仕方なかった。さすが六本木で個展を開ける現代芸術家だと、京介は思いながら受け取る。
夏越革は売れっ子現代芸術家だ。
目を離せない作品を作ることに定評があり、作品が視界に入っていないと落ち着かないと、生放送に作品を持ち込んだ芸能人もいるほど影響力があり、有名な作家だった。
カルト的人気に支えられて、まことしやかに変わった評判が増える度、夏越家であること以上の特別な力はないと、困ったように笑うのが常だった。
夏越家らしく、人に優しい彼が、京介は苦手だ。初めて夏越家に招かれたとき、彼と会うことはなかった。彼は創作活動にしか興味がなかったからだった。
そう、彼は、自分の作品のためになることしかしない。
笑顔で革は、京介に紙袋を手渡した。
「これは?」
「作品をまとめる用の紙袋。紙袋に入れて、放課後、俺の部屋の机の上に置いといて。一個三百万くらいで売れそうだから、丁重に扱ってね」
うわ、と京介は嫌そうな声が漏らす。
「志和に頼めばいいじゃないですか。嫌ですよ、そんな高い物持つの」
「妹にその余裕はないから」
「なんですかそれ」
「見ていればわかる」
押し問答の末、京介は嫌々紙袋を受け取った。長く世話になっている夏越家の一員だ。京介は頭が上がらない。工房をかまえてマンションに住んでおらず、あまり会ったことがなく、苦手に思っている革でも、それは変わらなかった。
不服そうな弟分に、革は言った。
「京介くんには教えとくけど、今回の志和の企みってもうバレてて、これは綿姉さんから頼まれているお仕置きだからね。助けちゃだめだよ」
京介が聞き返す前に、目の色が革の飴色から、薄茶色に代わった。
志和が自分の体に戻ってきた。次の瞬間、志和の体から、冷汗が吹き上がった。
「志和?」
京介の声に志和は一瞥を返した。彼女の顔に余裕はない。むしろ、憔悴した様子の友人に、京介は動揺した。
夏越家が入れ替わるとき、目の色以外の合図はない。小学生の頃と違い、志和の演技力も上がり、京介ですら目を見ないと誰なのかわからないときがある。
冷汗をかき、消耗した姿を見せる今の志和は、夏越家でも異常な入れ替わりだった。
本鈴と共に担任が教室に入ってくる。京介は、志和を気にしながらも席に戻った。
志和は一言も話さず、うつむいている。顔は長めの前髪で隠れて見えなかった。
あいつに何があった?
京介は、嫌な予感がした。
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