高校生編 朝

 数年後、女子高校三年生の夏越志和の朝は、ひどく騒がしかった。

 大家族である彼女の家のリビングは、何人もの家族が慌ただしく、思い思いに準備を整えている。

 長女の綿が、のろのろと部屋から出てきた志和に声をかけた。

「おはよう。志和、今日は部活ないの? 京介くん来ているわよ」

「テスト期間だから部活はないよ。急ぐ」

 そこで彼女は、自分の体のにおいをかいで、顔をしかめた。

「うわやめてよレル兄さん、私の体でたばこ吸った?」

「すまん。旨かった」

 よく眠って、すっきりと起きてきたレルは、志和に笑いかけた。

 志和は隈をつけた目でにらんだ。昨晩、レルと志和は入れ替わっていた。もう三日も徹夜で作曲を続ける兄を見かねて、自分の体を貸した。その結果が寝不足でコーヒーとたばこのにおいが染みついた体だった。

 志和の体でレルは、三時間睡眠での作業を決行していた。

「志和、ありがとう。おかげで作業ほとんど終わった。やっぱよく寝た体は最高だわ」

「そう思うなら寝てよね」

「遊ばないと良い曲を書けないのに?」

「さいてー」

 湯本京介は、多忙な幼なじみの準備の音を背景に、ごちそうになっているコーヒーを一口飲んだ。志和のやつ、この分だと今日も遅刻ぎりぎりになるな。思考は、綿の呼びかけによって中断される。

「京介くん、ピザトーストと目玉焼きを二つずつよね?」

 いつもありがとうございますと、京介は大声でお礼を返した。大家族である幼なじみの家での朝は、テレビの音すらよく聞こえないくらい騒がしかった。

「八座山市の広大な自然公園に、誘拐事件の風評被害が? レポーターが現地にて都市伝説を検証した結果、大変なことに? 昼のワイドショーで詳報します」

 テレビのニュース番組が近所の公園の名前を読み上げる声が、かすかに聞こえる。思わず夏越一家と京介の目が、テレビ画面に引き寄せられた。

「ニュースになったか。課長、怒られそうだな」

 テレビの画面が見えない洗面所から、少し高めな男性の声が飛んでくる。

 同時に女子大学生の次女、夏越福は立ち上がり、サラダだけ載っている皿の前に座り直した。福はフォークを握り、落ち着いた様子で酸っぱいドレッシングがかかったサラダを口に運んだ。

 その背後で、洗面所から出てきた気の良さそうな二十代後半の青年が、福の食べかけのフレンチトーストの前に座った。

 夏越はじめが、自分の仕事に関係のあるニュースを見ようと、夏越福の体に入れ替わったため、席替えが行われていた。はじめの体の中の福に向かって、綿は言う。

「ちょうどいいわ。はじめってば、最近痩せすぎでしょう。福、たくさん食べてやりなさい」

 綿の声に福は頷いた。青年の髪型は灰色の真面目なスーツと雰囲気の違う、軽くシャレた雰囲気のものに整えられていた。はじめ本人ではしない格好だった。

「そうか? まあ、福に比べたら食べない方かもな」

 はじめが福に向かって言う。福はむっとした顔で大きな口を開けて、コーラを流し込んだ。

 俺の胃が荒れる、と悲鳴を上げるはじめを、誰も気にも留めない。

 志和も彼らを無視して、にこにこと世話を焼く綿から朝食を受け取った。そのまま、いつものように、京介の横に座る。

「おはよう、京介」

「おはよう」

「ごめん、お待たせ」

「いつものことだろ」

 テーブルのうえに置いたのは、半熟で黄身がベーコンにかかっているワンプレートだ。志和の好物である白米は、茶碗に山盛りになっている。彼女曰く、白米の甘みがたまらないらしい。

 夏越家でこんな食べ方をするのは、京介の知る限り、志和一人だ。それでも、京介は確認しなければならなかった。

「俺の隣に座っているのは、中身も志和か?」

 志和は戸惑うことなく答えた。

「今は両方志和だよ。明け方まではレルに体貸してたけど」

 レルは体を酷使するから、貸したくないと笑う志和に、京介は相槌を打った。その顔に戸惑いの色はない。今に始まったことではないからだ。


 夏越一家は、自分たちの体を共有している。


 志和は夏越家の誰の体に乗り移ることもでき、他の家族も家族の体を使うことができる。今朝の目まぐるしい光景は日常茶飯事のことだった。

 入れ替わる双方の合意が必要だったり、入れ替わりによる暴挙を防止するルールがあると、この数年の間に京介は聞いていた。細かな内容は、まだ聞いていない。

 その他、京介が知ったのは、夏越家の入れ替わりは取り繕わなければ多重人格に見えることと、奇異の目で見られないために、入れ替わったときは全員が外見を基準として演技をすることだ。

 そして、上の階に彼らが引っ越してきて、十二歳の京介に会う以前からそんな一家で、その家の末っ子である志和と京介は、大事な友達だと思いあっていることだけだった。

 眠そうな志和は、京介の視線も気にせず、白米をそのまま頬張った。心からおいしそうに微笑んでいる彼女の顔に、憂いの色はない。

 京介は不思議でたまらなかった。今朝は、彼女は大変落ち込んでいるものだと、彼は予想していた。

「今日は中間テスト初日だろう。寝不足で大丈夫か。世界史日本史はともかく、お前の嫌いな国語があるぞ」

 今、志和と京介は、同じ高校に通う同級生だ。

 夏越家として恥ずかしくない点数を取るように、次男から厳命されている志和は、最も苦手な国語のテストが近づくたびに落ち込んでいた。

 志和はいつもと違い、自信ある顔をした。

「今回の国語は大丈夫。わたし、必勝法を思いついた」

「他の家族と短時間入れ替わって、答えを検索して書き写す作戦か? 国語の答えを検索は限界あるだろ」

「それはもうやった。怒られたし、今回はもっと大胆な作戦だ」

 上手くいきそうにないな、とは口に出さず、京介はピザトーストを食べた。

 志和が一人でたくらむことは、なぜか、いつも上手くいかない。忠告を諦めた京介は、目の前の美味しい料理に集中することにした。

 努力をせず、ずるをたくらむ志和には、京介は常々呆れていた。しかもこの友人は、夏越の力を使って、できることをするのに躊躇がない。結果、たまに、悪事に分類されることをしでかすことを、この数年間、何度も巻き込まれてきた。

 いつかこっぴどく怒られるぞ。居間に入ってきた夏越家の次男を見て、京介は心の中で思った。

 厳格そうな顔つきをした二十代後半の男だった。彼は、新聞を映していたタブレットを棚の所定地に戻し、周囲のほこりを払い落とす。

 志和たちが高校生になる間に、大学生だった和は外資系投資銀行に就職し、一家の大黒柱となっていた。そして神経質さにも、厳格さにも、磨きがかかっている。

 学校に遅刻寸前の志和と京介は、大急ぎで自分たちの朝食を食べ終えると、彼、次男の和と入れ替わりに食卓を立った。

 彼らは逃げるように、競うように玄関へと向かう。お揃いのバッグが揺れた。

 両親がおらず、長男は別に居を構え、長女は優しすぎる性格である夏越家は、彼らを除き最年長である彼が厳格に振る舞うことで回っていた。

「もう行くのか」

「うん、いってくるよ、和兄さん」「ごちそうさまです」

 末っ子でぼんやりした性格の癖に、たまに、思いつきで悪事を働く志和は、この数年間、和に数えきれないほど叱られてきた。おかげで、叱られる志和の姿を見てきた京介も、彼は苦手に思っていた。

 一瞥をくれる和に朝の挨拶を残し、彼らは大急ぎで玄関まで走る。

 引き留めたのは和ではなく、三男のはじめだった。

「ちょっと待てお前ら。家族会議だ。急いで教えとかないといけないことがある」

「午後、革にいと入れ替わる予定だから、そん時にでも教えてよ」

「面倒くさい。せっかくこの人数が生身で揃ってるんだ」

「メールしといて」

「文章に残すとまずい。仕事で聞いたことを教えているってバレる」

 ドアを開ける寸前で、志和は止まった。外で待っていようとする京介を、はじめは止める。

「いつも律儀だな、京介くん。身内なんだから、お前も聞いてくれ」

 京介はなんとなくむずがゆくて、そっぽを向いた。その様子を、朝からパフェを食べるレルがからかっている。

「静かにしなさい」

 注意を促したのは、和だった。レルが彼をからかう前に、はじめは口を開いた。

「朝のニュースでもあった自然公園の誘拐事件の噂。あれ、本当のことだから。俺の仕事で話が回ってきた。近々解決するから、それまで公園がある東区には行かないこと」

 はじめは大学院と就職を経て、公安警察に協力する探偵という特殊な立ち位置を手に入れていた。そのため、こうしてたびたび、夏越家は注意喚起を行われている。

 以前、不正だと指摘した京介に、はじめは、入れ替わる自分たちはほぼ同一人物だからと、意味不明な反論をした。

 今朝の注意喚起には誰からも反論がなく、それぞれ、了解の声を返した。夏越家の社会人の面々は地元八座山市で遊ぶことは、ほとんどない。せいぜいが、自分たちの所有する夏越神社の境内を掃除するくらいだ。

「つまり、志和が気をつけろってことだな」

「そういうこと。今週終わったらテスト明けだろ。遊びたきゃおとなしく舞浜に行け」

 志和は深く頷いた。

「もう入場チケット、予約してある」

「それでよし」

 京介は反論しようとしてやめた。テスト明けの舞浜は、彼にとって初耳のことだが、どうせ、志和と遊ぶに決まっていた。

「妹をよろしく」

 レルの言葉に、京介は迷いなく頷いた。この数年間で、彼ができるようになったことの数多くのうちの一つだった。

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