小学生編 緊急事態
気をつけろって言われていたじゃねえか。京介の内心の言葉が、レルに似た荒々しい言葉遣いになる。
毎週金曜日は京介は保健委員会で帰宅が遅くなる。最近一緒に帰っている志和を説得したのが数時間前。説得の甲斐なく、志和は校庭で京介のことを待っていた。
夜の帳が下りてきて、明かりの行き届かない校庭は暗くなりつつあった。不審者が活動するには絶好の時間だ。
目の前で知らない大人が志和に話しかけている。京介はくらくらした。志和は状況がわからないようで、きょとんとした顔で応対していた。
「よく生きていたね。おじさん、感動している」
「わたしに言ってます?」
「君、魂は信じるかい。それがないと生きられなくて、君にはあるものだ」
「おじさんは誰ですか?」
「人間には魂がある。君を見て確信した」
「何の話?」
「ちょっと写真撮らせてね」
京介は志和に駆け寄った。背中に彼女をかばう。
隈の濃い、二十代前半の若い男だった。髪は無造作で目が隠れている。白衣を着ているのは生物学者の不審者情報の通りだった。
「校庭で何をやっているんだ」
京介は精一杯怖く見えるように彼をにらみつけた。スマホを掴んでやり、レンズに渾身の力で砂を擦り付けた。
不協和音と共に、不審者は顔をしかめた。
「参考資料も取れないとは。まあいい。外観は重要じゃないからな」
京介は志和の手を握って走り出した。目指すのは校舎だ。先ほどまで委員会をやっていた校舎の明かりは、外よりもずっと明るい。防犯ブザーを鳴らすのも忘れなかった。
校舎の三階の窓が開き、先生と目が合った。
慌てた彼らを見ながら、京介は志和に叫んだ。
「志和、ここを逃げ切れば先生来るからな! 頑張ろうな!」
こくこくと志和は頷いた。しかし意気込みをよそに、志和はコケる。
不審者はくすくすと笑った。
「かわいそうに。まあ、走るための筋組織も特殊だから仕方ない」
彼が悠々と歩きながら、ジャケットの内側から取り出したのは、白い拳銃の形をした機械だった。それは体温計によく似ている。
男は二人に向けて、引き金を引いた。
とっさに京介は志和をかばって伏せて、目をつむった。
ピピ、と軽い音がした。その小さな画面を見た白衣の不審者はわなわなと震えていた。
「馬鹿な、魂が一つしか計測されない。まさか、お前は魂がないまま動いている?」
京介は狂人の言葉は聞く気はなかった。ただ、メスを手に取りだしたのを見て、状況が変わったと判断した。京介は問いかける。
「メスを何に使うつもりだ」
「脳のサンプルを取得する」
「何のために」
「研究。国から予算も出てるぜ」
京介は、志和を起き上がらせることに成功した。彼は時間稼ぎのために、必死に口を動かす。
「魂だなんだの言ってたが、魂にサンプルがとれるかよ。脳と何の関係があるんだよ」
「お、研究に興味を持ってくれるのか。まあ、僕は協力者なんだ。詳しくない。『量子脳理論』で検索してくれ。色々な教授が執筆した論文が出てくる」
「サンプルの答えになっていない」
「確かに。魂のサンプルはまだ発見されていない。ただ、僕らの学派は、魂は脳のある一定の波から生まれていると仮定している。波を測ることで僕らは魂を観測することができる。ほら、あの計測機がその産物さ」
「それとこいつに何の関係がある」
「彼女からは魂が計測できなかった。初めての特異データだ。だから、そこの女の子の体組織の提供があればもしかしたら、魂の有無の原因物質を特定できるかもしれないんだ」
狂っている。京介の結論はそれだけだった。男はなおも意味不明の言葉をつぶやきながら、こちらに向かって走ってきている。ここを乗り切れさえすれば。京介の願いは叶わない速度だった。きっと警察や担任が到着するより、彼がメスを振るうほうが早いだろう。
京介の頭が、目の前の男から逃げるべく知恵を絞る。走馬灯のように、彼が見たものが再生される。下水道の美しい緑の苔、魂の単独の存在、大雨、入れ替わる目の色、濁流、苔、蛍光カラー、赤い目、薄茶色、真っ赤な、火花。
ああ、自分も狂ったみたいだ。
京介は決意して、志和に大声で言った。
「レルさんに代われ!」
目の前で魂などの狂った会話をされた影響か。京介は常々考えていた。あり得ないと考えないようにしていた。ついにこの日、京介は叫んだ。
「志和とレルさんは体を入れ替われるんだろ? レルさんは運動神経が良い! レルさんになって走れ!」
志和は頷いて、首を振った。
「入れ替われるけど、レル兄さん、まだ寝ている!」
京介は身をひるがえした。志和はまだランドセルを背負っていて、右側面には鳴らされていない防犯ブザーがある。
彼はそれを掴むと、最大音量で志和の耳元で鳴らした。そして声の限り叫ぶ。
「起きろレルさん! お前の妹がピンチだぞ!」
入れ替われるなんて、感覚を共有しているなんて、ましてや、ブザーを耳元で鳴らして保護者を呼ぶなんて、意味のない行動のはずだった。
不審者は小学生二人の行動を意に介さない。彼は走り寄り、メスをきらめかせた。
京介の眼前で志和がまた転びそうになる。志和に背に隠し、不審者に向き直った京介は、彼のメスの前に立ち、目を思い切りつぶった。
衝撃は京介の予想と違い、背後から来た。
「京介、最後まで目はつぶるものじゃないぜ」
言葉に京介は振り返る。
振り返って見た志和は、目を真っ赤に光らせていた。
彼女はそのまま京介を抱きかかえて、後ろに跳躍した。ま飛び乗ったブランコを振り子のように使って飛びさすり、一歩であり得ないほど不審者から距離を取った。
志和の行動に間髪入れずに、白い機械で再計測を行った男は茫然としていた。
「魂が発生した? いや、これは余所から移動してきたのか?」
志和は大声で叫ぶ。
「先生、こっちだ!」
ようやく、京介の先生たちは駆けつけて、何本ものさすまたで不審者を地面に引き倒した。白衣が校庭の砂で汚れる。彼は抵抗一つしなかった。
さすまたで引き倒された不審者は、ぶつぶつと考え事を話すのをやめない。
なんとなく、聞かせてはいけない気がして、抱きかかえられたまま、京介は志和の耳に手を当てた。
志和の顔はゆっくりとほほ笑んで、言った。
「俺なら大丈夫。志和にはそうしてやってくれ」
そう言う志和の顔の目は赤いままだ。
京介は、誰が話しているのか、すぐに理解できた。
「やっぱり、今、レルさんでしょ」
志和と入れ替わったレルは答えなかった。
「この分じゃ事情聴取だ。がんばれよ。適当なところで俺も代わるからな」
レルがそう言ったのは、京介に向けてだったのか。それとも、レルの体にいる志和に言ったのか。京介が確かめる前に戻ってきた薄茶色の瞳は、ほっとした顔で揺れていた。
薄茶色の目だ。京介は志和が自分の体に戻ってきたことで安堵した。直後、彼女は京介の体重を支え切れず、取り落とされた京介は悲鳴をあげた。
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