小学生編 スイッチョン

 次の日から、京介の生活は一変した。

「志和ちゃんってぼんやりせずに、話すようになったね」

「いや、京介くんにだけだよ」

「え、本当? なんで?」

 俺が聞きたい。京介は聞こえてくる噂話に、心の中で返事をした。

 横にいる少女は何も聞いていない。それこそ、京介の相づちすら聞いていない。

「最近ゲームの楽しさようやくわかったの。それで、レル兄さんと一緒に、土日寝ないでずっとやってたら、頭痛がひどくて。火曜日の今日になってもそうなんだよ。小さいこの体は面倒だね。あと、綿姉さんが作るパンプキンパイ、私の体ではおいしかったけど、和兄さんは食べられなかった。人によって、味覚も違うのってすごいよね。給食も実はみんなにとって違う味なのかも」

 志和になつかれたのだ。それだけでなく、ぼんやりしていた頃の彼女はもうどこにもいない。日に日に話す時間が増える彼女に、京介はげっそりとしていた。

 幼児が言葉を覚えて、自己表現できるようになった途端に話し続ける現象に似ているそれに、京介は機械的に相づちを打ち続けていた。

 泥まみれになった日からまだ、数日しか経っていない。志和のきれいな顔には、まだばんそうこうが貼ってある。

 レルに言われた通り、真面目な京介は責任を取り続けていた。

「待て。お前、今、頭痛がするって言ったな」

「言ったよ? 視界が揺れて文字が読みづらくてちょっと大変」

「先生、こいつ、保健室に連れていきます」

「なんで? まだ動けるよ」

 なつかれてみれば、夏越志和はトラブルメーカーだった。

 体育の授業では必ず怪我をする。50m走を走りきれないほどよく転ぶ。飛んできたボールを、避けきれずに当たることも多い。

 風邪には必ずかかり、聞けばあの大雨の翌日に熱を出して寝込んでいたという。

 給食の配膳で、熱せられたスープを浴びそうになっていたことまである。京介が気づいて、手をやけどしながら倒れかけたスープジャーを防がなければ、そのまま志和は大やけどを負っていたはずだ。

 これが一週間足らずに起こっていた。志和は不運なうえに、体の扱いが雑なことに、京介は頭を抱えていた。

 今回もそうだ。頭痛を隠していた志和は、具合の悪さを隠す意図は一切ない。ただただ、動けるか、動けないかで判断しているだけだった。

 苦痛を感じる自分の心は、志和の判断基準に入っていない。

 保健室から、帰りの会を免除され、帰宅命令を受けた志和と一緒に帰りながら、京介は口を開く。

「お前、道徳の授業ちゃんと受けろよ」

「人に優しく、わかってるよ。姉さん兄さんたちにもよく言われている」

 目の前の少女に、自分に優しくさせる方法を、京介は知らなかった。

 京介自身も「人を助けろ」と両親や教師に教えられて育ってきたにも関わらず、保健室に行くことは出来る。だから、どうして、志和は自分に優しくできないのか、京介には全くわからない。志和への説得の言葉が見つからない京介は、黙って通学路を先導していく。


 喧嘩をした日から、夏越志和の目は色を変えず、薄茶色のままだ。

 思えば、目の色が変わるのは、志和が小さなピンチに陥るときだった。

 体育の目の色が変わらなくなった途端、怪我ばかりになり、反射神経もなりを潜めてやけどを前にしても硬直するようになり、雑な扱いを受けている体はすぐに風邪をひく。


 もしかして、性格が変わるのは必要なことだったのか?


 ふと京介は顔を上げる。自分たちのマンションの一階エントランスに着いていた。

 志和の兄、レルがふんぞり返って、彼らを出迎える。

「ごくろう」

 レルはいつものスウェット姿で仁王立ちしていた。髪には寝癖がついており、学校の連絡を聞いて慌てて出てきたときの姿だと、京介はわかってきた。

 彼は真っ赤な目をしている。その綺麗な色は、以前まで活躍するときや雨水道のときの志和の目の色にそっくりだった。

 京介はいまだに、そのことを聞けないでいる。

「そういえばレルさんいつも家にいますけど、学校とかお仕事とかどうなんですか」

「音楽関係。売れてないから、今は家で曲ばかり作ってる」

 人によってはデリケートな話題だから、簡単に聞くなよと言うレルの横で、志和はふらついていた。

「また体調不良か」

「今日はレルさんとの徹夜ゲームが原因っぽいですよ」

「アラートを出す練習だったんだが、延々に付き合ってきやがったからな」

「身体感覚が鈍いんじゃないですか」

 身体機能に異常があるとすれば仕方ない。京介の発想に、レルは断言する。

「いや、身体機能に異常はない。むしろ嗅覚が人より過敏なくらいだ」

「なんで、他人の体の機能のことがそんなに詳細にわかるんですか」

 レルは京介の追及に、めんどくさそうに応じた。

「あー、調べた。ほら、病院でそういうことできそうじゃん。知らんけど」

「嘘つくならもっと努力してくださいよ」

 京介は呆れながらプリントを取り出した。

「最近、連絡漏れ多いって聞いたので、俺から渡します」

 担任から託された連絡事項のプリントだった。最近、志和は以前とは違い、家族への伝え忘れものが多くなっていた。

 忘れものが増えたのは、目の色が変わらなくなったときからだった。

 京介はふるふると頭から考えを追い出した。ただの近所付きあいのはずが、踏み込んではいけない事柄に行きついてしまいそうだった。

 レルは、その様子を蛇のように観察している自分を隠しもしない。

「ありがとう、助かるよ。最近、志和は行き来したがらないから、わかりづらいんだよね」

 京介は聞き流した。

 レルはプリントを一読して顔をしかめる。無機質な不審者情報の文字を、彼は指ではじいた。

「生物学者を名乗り、小学生に声をかける。だいぶ気合が入った変態だな。気をつけろよ志和。できるなら俺がお前に代わって八つ裂きにしてやりてえよ」

「やめてくださいね。レルさんならできそうですけど」

 喧嘩慣れしてそうな細身で筋肉質な体を、レルはしなやかに動かして、志和をおぶった。

「別に大したことねえよ。どの体でも動かし方一つで同じことができる。志和と一緒に教えてやろうか」

「志和はまず、日常生活を送れるようにしたほうが良いかと」

 肩をすくめたレルは、京介たちと共にエレベータに乗り込んだ。

 レルは六階を、京介は五階を押す。

「志和に小言を言ってくれる友だちができて、兄ちゃんは嬉しいよ」

 頭痛に黙っていたはずの、志和は笑った。

「わたしもそう思うよ、レル兄さん」

 狭いエレベータのなか、むずがゆさに京介は耐える羽目になった。

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