小学生編 泥試合

 その日も雨だった。京介は雨水道の一件を思い出してイライラする。あれから一週間、ずっと雨が降り続けている。

 あのときの京介の悪意を知る同級生たちとは、すっかり話さない仲になった。おぼれかけた体験の恐怖と、悪意を向けられたはずの志和にかばわれたことで、償いのできない罪悪感を、同級生たちは感じていた。仕方ないことだと、京介は思っていた。

 秘密基地だった上水道は今日までの雨ですべて流されてしまっているだろう。あのとき流してしまった懐中電灯は海まで届いただろうか。

 そんな取り留めのないことを考える京介の前に、見慣れてきた後ろ姿があった。

 同級生たちには糾弾されたことだが、未だに京介は志和に謝っていない。

 薄茶色の目の志和以外を、志和と認めていないからだ。あの日、京介を助けたのは赤い目で、恩があるのは赤色と黄土色だ。

 だからこうして、薄茶色の志和にあったとしても、京介の態度は雨水道の一件を経ても変わらない。

 雨の日の靴箱の前は、ひどく冷え込んでいた。

「よう、志和、今はぼんやりモードか」

 暗がりで振り向いた薄茶色の目は、何の感情も写さない。あの日から変わらず、志和はほとんどの時間、薄茶色の瞳でぼんやりしている。

 京介は以前からそれを、ぼんやりモードと言ってはばからず、クラスメイトたちはそれを強い言葉でいさめていた。

「今は素か? いつもそれでいればいいじゃねえか」

 もしくは激しい赤色が素なのか。なぜ隠す必要がある。京介の内心の疑問にも、言葉にも、志和は答えない。ただふいと目をそらした。

 眼中にもない様子に、京介はこのうえなく苛立った。

 外の雨は強くなっている。夏の大雨とはいえ、雨に濡れるには肌寒い。天気予報では一日中降ると言っていた。

 なのに、志和の手に傘はない。しかも、小学生にしては遅い時間だった。保険委員会で遅くなった京介はともかく、志和が夕方になっても学校にいるのは不可解だった。

 朝の登校時は晴れていたと、京介は思い出す。おおかた、傘がないことに困って、ぼんやりしていたらこの時間になったのだろう。薄茶色のときの志和らしい行動だった。

 今の彼女はマンホールの下でみたときの存在感は消え失せている。

 その事実が京介には無性に腹が立った。どうして彼女は普段の自分を出さないときがある?

 苛立ちに任せて、京介は普段は言わないことを言った。

「傘ないんだろ。頼んだら貸してやらなくもねえよ」

 クラスメイトに対しての京介なら、余っている折り畳み傘くらい、何も言わずに貸す。上の階に住んでいる同級生で、最近あんな大迷惑をかけた相手ならなおさらだ。

 でも志和にだけには、それをしたくなかった。

「一緒に帰るのも嫌だけど、仕方ねえからな。ありがたく思えよ」

 こんなに横暴な言葉を吐くのは、彼にとって初めての経験だった。かばんを開け、志和の顔を見た京介は、横暴な言葉を吐いた甲斐があったと思った。

 志和は目を真っ赤に染めて、こちらをにらんでいた。

 涙目でも充血しているわけでもない。徒競走のときと同じ、真っ赤な虹彩に変わっていた。

 赤い目の志和は言う。

「貸せよ、傘くらい。いじわるするなクソ野郎」

 唐突な罵倒に、京介の全身の毛が逆立った。彼は叫ぶ。

「嫌だね!」京介は赤い瞳をにらみつけた。「知らないやつになんかぜってえ貸さねえ!」

 剣呑な赤い目が、驚きにまん丸になった。

「どういう意味だ」

「教えてやるもんか」

 京介は傘を開きもせず、靴を履いてそのまま外に飛び出した。

 赤い目を見るのは嫌だった。見れば見入ってしまいそうなのも、自分の中の何かが、あれは人知を超えたものだと警鐘を鳴らす意味を、考えるのも嫌だった。

 志和は同じくそのまま追いかけてくる。土砂降りの水たまりを躊躇なく踏む。追いかけっこが始まった。

 京介のTシャツや短パンにまで泥が跳ねる。志和のワンピースが濡れて汚れていく。ただただ不快な感覚に、二人の形相は小学生らしからぬ憤怒に満ちていく。

「お前も傘さしてなくて、何がしたいんだよ」

 志和の声が後ろから追いかけてくる。京介は後ろを走る志和に向けて、返事代わりに泥を飛ばす。

 薄茶色の志和はいつも人のことを「君」と呼んでいた。京介の後ろを走る者は、もはや得体のしれない何かでしかなかった。

 口に泥が入ったらしく、激昂する声が聞こえた。

「ぺっぺ、この、やらせておけば、このガキが!」

 だんだんっと金属のフェンスを踏み込む音が、斜め上からした。

 京介が振り返ると、志和が宙を飛んでいた。

 そのまま大きく、京介の頭めがけて、その華奢な足を蹴りこんだ。きれいな放物線を書いたそれは、京介の頭に吸い込まれていく。

「当たるかよ馬鹿!」

 一瞬の交差、京介は足を、擦り傷と共に避けた。

 空中で一回転した志和は、驚いた顔を浮かべた。

 そのまま、赤い目が引っ込んだ。

「え?」

 二人の声が重なる。志和は空中で固まった。着地の仕方もわからないといった様子であたふたしだす志和と道路の隙間に、京介は自分の体を滑り込ませることに成功した。

 無様に道路に転がった小学生二人は、ずぶ濡れの泥だらけで、擦り傷だらけの体はどこから見ても喧嘩をしていたとわかる姿だった。

 二人はもつれたまま、目を合わせた。

 京介の頭はもう冷えていた。濡れて冷え切ったのと、目の前の志和の姿のせいだった。彼女のワンピースはすべて泥にまみれて擦り傷だらけで、ところどころ破けていた。

「志和、やっぱり傘貸す。それに、ジャージあるから着ろ」

 きょとんとした顔の志和は動かない。

 数分後、京介は観念したように、頭を下げた。

「ごめん」

 その言葉にも、志和は反応を返さない。京介には雨の音が煩わしかった。

「何か言えよ」

 挑発の言葉にも志和は反応しない。また、ぼんやり志和に戻ったか。そう言いながら、京介は傘を彼女にさしかけた。

 一つの傘の下、志和は顔をあげた。

 近くで見る整った顔立ちに、京介が顔を赤らめると同時に、志和は言った。

「京介くんは、わたしのことわかるの?」

「やっぱりなんかあんのか」

 心底嫌そうな顔で京介は即答した。

「事情はなにも知らないけど、薄茶色の目だと志和っぽいと思うぜ」

 京介は、自分が独特な表現をしていることに気づいていない。

 彼は、魂の色を目の色として見る共感覚を持っていた。誰もそんな感覚を持っていないとは、彼は知らなかったのだ。

 京介が他人の目を見るとき、黒色だけではなく、色彩豊かな魂の色を見ることができた。そのため、志和の目を見たとき、虹のように色が変わる、不可解なものとして彼は表現した。

 志和には、京介の言葉はほとんど意味不明だった。彼女は首を傾げた。

「なんで、目の色が変わるわたしは嫌なの? 京介くんに迷惑かけてないよ」

「なんでって」京介は言葉に詰まる。

 あまり親しくない同級生が、違う性格になるのが、なぜ気に食わないのか。

 雨の中、京介は考えた。二人のかばんの中の教科書が水没するまで考えて、京介はようやく言った。

「おれは志和が気になるのに、急に違う人になるから、嫌だ」

 言ってみれば、恥ずかしい言葉だった。京介は慌てて傘を志和に押しつけて、強引に立たせた。

 そのまま、ぼーっとではなく、あっけに取られている様子の彼女を引っ張って家まで帰る。

 ようやく、マンションの一階エントランスで、彼らは立ち止まった。体は冷え切っていて、きれいなマンションの床は、彼らから滴る泥で汚れていく。

 そこでは、青年が小学生二人を待ち構えていた。

 一見優男に見える彼は、耳のほとんどの部分にピアスの穴が開いていた。長い髪をぼさぼさとさせた様子は、慌てて外に出てきた格好だった。

 京介は一目で、彼が志和の兄弟なのだと気がついた。

 青年は、赤い眼光を、まっすぐに京介に向けていた。思わず立ちすくむ京介の前に、志和が立ちふさがる。

「わたしの意思だよ、レル」

 レルの目が驚愕で丸くなった。

「お前に意思が」

「そうみたい」

 京介が話す前に、志和は言った。

「ここであったことは夏越と京介くんとの秘密ね。誰も責めないから」

 京介は慌ててうなづいた。レルはそのまま彼をにらみながら、志和に言う。

「こいつに言わされているんじゃないのか」

「夏越なら知っているくせに」

「まあな」

 話しながら二人はエレベータに乗った。振り向いた彼女は言う。

「また明日、学校でね、京介」

 その顔は晴れ晴れとしていた。まるで探している人を見つけたときの見つけたときのようだった。今まで見せたことのない、美しく無邪気な笑顔だった。

 京介は、今後どんな笑みを見ても、この笑顔が浮かぶんだろうなと確信した。

 志和の後を追ってエレベータに乗ったレルが、京介にすれ違いざまにささやいた。

「責任取れよ」

 直後にエレベータは閉じた。一人残された京介は、ぽつりとつぶやいた。

「責任って、どんな?」

 京介は自分が寒気を覚えているのはきっと、雨に打たれただけではないと思った。ただ、頬が暑いのは雨のせいに違いないと思いたかった。

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