鬼との約束

王生らてぃ

本文

「あそこの山には行っちゃだめよ。鬼が棲んでるから、あんたも取って喰われちゃうよ」



 ――なんて、おばあちゃんもお母さんも口をそろえて言う。

 バカバカしい。

 鬼なんて、今時いるわけがない。信じるわけがない。

 そう思っていたから、いつもこっそりと山に行って遊んでいた。畑や田んぼしかない田舎よりもずっと面白かったし、大きな木の下でお昼寝をするのは気持ちよかった。お腹がすいたらそこら辺の木の実とか野草とか食べられたし、のどが乾いたら小川の水も飲めた。だけど暗くなったら、あたりは何も見えなくなって不気味だったし怖いから、いつも日が沈む前には帰るようにしていた。

 ところがある日、うっかり道に迷って、夜中まで山の中をさ迷い歩く羽目になったことがあった。

 ちょうど雨が近かったのか、風は強いし、やけに寒いし、月の光もなくて全く周囲が見えなくて、ものすごく怖かったのを覚えている。わたしはこの日初めて、山に入って遊んでいたことを後悔した。寒さと恐怖で足が震えて、動けなくなって、ただすすり泣くしかできなかった。



「どうしたの?」



 その時、女の子の声がした。

 姿はよく見えなかったけれど、目の前にかすかな存在感と、生き物の熱が感じられた。わたしは驚いたけど、藁にもすがる思いで事情を説明した。すると、その女の子はわたしの手を取って立ち上がらせ、ぐいと引っ張った。



「こっち。ついてきて」



 女の子の声、とても小さな手なのに、まるで男の人みたいなものすごい力だったので、わたしは喉の奥が縮んで声が出せなかった。ぐいぐい引っ張っていくその子は、まるで目が見えているみたいに、倒れている木や太い枝を見つけては、そこをくぐって、そこは気を付けてと指示した。

 ごろごろと空が鳴る。雨が近いのだ。ますます心細くなってきたとき、がーがー、ほーほーと鳥が一斉に騒ぎ出した。バサバサとはばたく音、木々がざわざわ揺れる音。そして遠くから響いてくるゴロゴロと震える雷。すべてがわたしを不安にさせて、涙がにじんでくる。たまらずしゃがみこんで泣き出してしまったとき、女の子も立ちどまって、大きく息を吸い込んで――



「静まれ!」



 一喝。

 ――その叫びは、まるでお父さんが怒ったときみたいに低く響いた。

 急に山は静かになった。

 さっきの女の子の声が、やまびこになって、そこら中にこだまするほど、しんとしたのだ。女の子は握ったままのわたしの手をまた引っ張り上げた。



「ほら。もう少し」



 また、元の優しい女の子の声に戻っていた。

 顔も姿もほとんど見えなかったけれど、わたしはこの子が好きになっていた。

 やがてふもとの村の光が見えてきた。大きな声で、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。あれは――お父さんとお母さんの声だ。



「よかったね。さあ、行って」



 女の子は手をはなすと、わたしの背中をどんっと叩くように押した。

 わたしは振り返って、その子のほうを見た。

 ひとこと、お礼が言いたくて。



「あの、ありが――」



 その時、バァーンっというものすごい音がした。山のてっぺんにある大きな木に雷が落ちたのだ。その雷は周囲を一瞬、昼間のように光らせ、それまで全く見えなかった女の子の姿をあらわにした。

 長い黒髪。

 真っ白で、折れそうなほど細い手足。

 そして――――真っ赤に光る眼と、額から生えた大きな角。



 たぶん驚いたのか、怯えたのか。

 わたしは悲鳴を上げて泣き叫び、途端にものすごい雨が降り出した。

 ――そのあとのことは、よく覚えていない。

どうやら無事に保護されたわたしは、当然家族からこっぴどく叱られ、二度と山には入るなと厳しく言われた。わたしも、その言いつけにおとなしく従い、あの日のことは忘れようと心に誓った。

 鬼は本当にいたのだ。






     ○






 それから十年以上も経つころ。東京で暮らしていたわたしは、おばあちゃんの三回忌で久しぶりに田舎に帰った。ふとあの山を見て、その時のことを思い出した。ちょうど、あの日のように曇り空で、今にも雨が降り出しそうな感じだった。

 年を取った両親は、わたしの言うことにいちいちケチをつけたりしない。適当な言い訳をでっちあげて、わたしはもう一度、山へ入ってみることにした。

 まだ周囲は明るいが、いちおう懐中電灯を片手に、険しい山道を歩く。小さい頃はここら辺を走り回って遊んでいたのかと思うと、我ながら子どもの体力というものは恐ろしいと思う。だけど休み休み歩いていくと、お昼寝の場所として使っていた大きな木や、小川の場所などは、ちゃんと記憶の通りにそこにあった。

 そして、歩いていくうちに、わたしはあの日、さまよっていた場所に戻ってきたことに気が付いた。



 そこには、明らかに不自然に開かれた場所があった。

 あの日は暗くてよく見えなかったが、半径五メートルほどのスペースが、人為的に形作られている。雑草もなく、木の枝もそこだけは取り除かれていて、鬱蒼と生い茂る森のそこだけ円柱状にくりぬいたよう。

 そしてその中心には、古くさびれた祠のようなものがある。

 ぼろぼろになった真鍮の錠がかけられ、扉は固く閉ざされている。扉には呪文のような何かが書かれた、ぼろぼろのお札が貼られていた。ぐにゃぐにゃした字はよく見えなかったが――「鬼」という漢字だけははっきりと読めた気がした。



 その時、周囲の空気が、ざわっと渦巻いたように感じられた。

 気配を感じて振り返ると、そこには確かに、あの時の女の子がいた。長い黒髪、白い顔と赤い目、そして――額から生えた、人のものとは思えない、三日月を突き刺したような角。赤い模様に染められた、裾のすり切れたぼろぼろの着物から、ほっそりした手足がのぞいていた。

 間違いない。

 あの時、雷が光った一瞬、垣間見た、あの子に間違いなかった。



「あの……」



 その子はじっと、こっちを見ている。

 わたしは胸に詰まった言葉を、少しずつでも吐き出そうと思った。



「お……覚えてる? わたし、助けてもらったの。あなたに。小さいころ……迷子になって、家に帰れなくなったとき、あなた、ふもとまで案内してくれたよね、わたしを。ずっとお礼が言いたかった、ありがとう、あなた――」

「もうここには来ないで」

「え?」

「ここには来るな。人間め、取って喰うぞ」



 その声は、あの時、鳥の声を静めた時の低く響く声だった。

 やにわに、周囲が急に不自然に暗くなり、ごろごろと雷が鳴り始めた。空の雲が重たく迫ってくるようだった。

 女の子の目が光り、口の端から鋭い牙のような犬歯がのぞく。



「あの……」

「この山から出ていけ」

「あの、わたしは……!」

「出ていけ!」



 叩きつけるような雷鳴。閃光。

 ――気が付くと、わたしは山の入口に立っていた。いつの間にか土砂降りの雨が降っていて、体はずぶぬれだった。あまりの寒さに両腕で体をかき抱いたとき、ふと違和感。

 一瞬遅れて、激痛。

 左手の薬指が、根元からなくなっていた。

 血がだらだらとこぼれ落ちている。断面はぎざぎざで荒々しく、まるで何かにかみちぎられたようになっていた。






     ○






 結局、指は不幸な事故で失ったということになったが、さすがに両親も黙っていなかった。お祓い、除霊、厄除け、あらゆるものを徹底的に受けさせられた。それはまるで人間ドックだ。そして、山の近くに住むことを嫌がって、街中の集合住宅に移り住むことにしたらしい。わたしは東京に戻り、いつも通りの生活を続けた。

 時々、なくなった左の薬指のことを思う。

 次は、これだけじゃ済まさないぞ――という、あの子なりの警告なのだろうか。一度目は傷つけずに、ただ山から追い出した。二度目は指をちぎって喰った。三度目は――



 わたしはただ、あの子にお礼を言いたかっただけなのに、それはもう二度とできそうにない。

 また会いたいのに。

 会って、お礼を言って、それから――謝りたいだけなのに。あの時、あなたの姿を見たとき――あなたを怖がってごめんなさい、と。

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